キリスト教のベースがない日本は「法化社会」になれるのか?

今回号の「旬刊商事法務」の特集は、昨年12月に施行になった新TOB規制について。
相当TOBに詳しい弁護士さんに伺っても、「細かい部分はよーわからん」とおっしゃるほどややこしい規則になったわけですが、もともと3分の1を取得する際になぜ強制的にTOBをしなればならないのかという「思想」はなさそうなのに、規制を抜ける裏技を駆使するやつがいるので、とりあえずそれにパッチを当てるために規制を積み重ねているというんではないかというのが、率直な感想であります。
で、今回の改正で「抜け穴」が完全にふさがれたかというと、特集の論文にもあるとおり、まだ、グレーなゾーンやTOB規制を抜けるウラワザはいろいろ考えられるわけで、いたちごっこが終わったとは言えなさそう。
一方で、TOB規制が複雑になると、(個別の事例の判定は なんとかできても)、株式を購入しようとした場合の「ストラテジー」をイメージするのが非常に大変になります。(先に、ブロックである程度の株式を買っておいたほうがいいのか、最初からTOBするのか、第三者割当を受けるのか、市場で買い付けるのか、等。)
イメージがわきにくいと、マクロ経済的に見た取引量は減少するわけで、それは社会全体にとってみていいことなんでしょうか。
−−−
日本は、昔からルールはざっくりつくっておいて、優秀な人が全体を考えてそれを運用するというノリでやって来たかと思いますが、社会が複雑化して優秀な人でも全体を見回すことが困難になり、ルールを定めるから各自が勝手にやってちょうだいという「市場型社会」または「法化社会」に変わらざるを得なくなってきています。
しかし、国民性として根が真面目なので、「ルールを設定してそれを守ろう」という流れになってくると、ルールだけが(そもそもの「ルールの目的」を離れて)一人歩きするし、ルールに抵触する可能性がちょっとでもある場合に取引が行われなくなっちゃうし、ルールにちょっとでも形式的に抵触するやつがいると必要以上にそれをぶったたくことになっちゃう気がします。
(結果として、福井総裁の村上ファンド問題や、柳沢発言、不二家、過剰演出問題など、「確かに褒められた話じゃないが、そこまで叩かないとだめ?」という事件が頻発。)
ということで、(「欧米か!」と言われるかと思いますが)、ここで、「法化社会」の先輩である欧米社会の基盤となっているキリスト教(というか、イエスの言動)と、その「ルール」と「その運用」の考え方について考えてみたいと思います。
イエスの伝記と法令順守
新約聖書を読むと、イエスの伝記に相当する最初の四つの福音書のかなりの部分は、「ファリサイ派」や「律法学者」などの既存勢力が、イエスたちに、「おまえら、法令順守してないじゃん」というインネンをつけてくるのに対して、イエスが「重要なのは本質だ」と切り返す、というエピソードでなりたってます。
例えば。

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9.10〜9.13)

そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
人の子は安息日の主なのである。」(マタイ12.1〜12.8)

イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」(マタイ12.9〜12.12)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。(中略)しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10.25〜37)

など。(下線部筆者。以下同様。)
キリスト教は欧米を中心に世界人口のかなりのシェアを占めていますが、こうして見てみると、その思想のバックグラウンドの一つは、「法を形式面だけで論じたり、重箱の隅をつついたりしてはいけない。」ということでありましょう。福音書自体、既存の法令解釈の硬直化に異を唱える一人の男が、それによって恨みをかって、適正とは言えない裁判プロセスを経て十字架にかけられるというお話ですし、イエスが死をかけて示したことは「本質を考えた法令解釈をすべきだ」ということだと言っても過言ではないかと思います。
一方で、イエスは「法律は無視していい」とは言ってませんし、むしろまったくその逆で、

わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらのもっとも小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
(マタイ5.17〜5.19)

と、あくまで「コンプラ最重視」のスタンスを打ち出してます。
ということで、こうした宗教的素養が知識人の教養の基礎になっている社会では、「コンプライアンス」と「法令解釈の柔軟性」を両立する力が働く可能性が高いように思われます。
「ローエコ(法と経済学)」なども、「ルールがそもそも『本質』に即しているか?」ということを考えようという発想がないと出てこない概念かも知れません。
「柔軟性」をあまり強調すると、他人の国を攻撃したり、大統領府で不倫しても辞めなくていい、ということにもなるんじゃないかと思うので、バランスは大切かと思いますが、
「重箱の隅を突く形骸化した法令解釈は恥ずべきことだ」という観念が脳の片隅に引っかかってないと、形式的な法令解釈地獄にどこまでも落ちていく気がします。
また、キリスト教社会や経済が領土や範囲を広げていったのも、(よくも悪くも)その法令解釈の柔軟さに負うところが大きいのではないかと思います。
(ではまた。)

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マンダリンオリエンタル東京にお泊り

先週末に、めでたく結婚15周年を迎えたということもあり、昨晩は記念にマンダリンオリエンタル東京にお泊りをいたしておりました。
(ちなみに、エクストラベッド無料で、子供2人もいっしょであります。)
某カード経由で予約したところ、定価10万円超の広めの部屋にアップグレードしてくれた上、翌日午後4時までのレイト・チェックアウト、朝食・昼食(@3,500円×2人×2回分)もセットされ、結婚記念日ということでフロントのみなさんの寄せ書き+中国風デザートのルームサービスまでいただいて6万円台という、なんともリーズナブルなお値段でありました。
(一家4人で旅行でもしたら、交通費だけでこんなもんじゃすまないわけで。)
ちゃんとしたデジカメを持って行き忘れて携帯のカメラで撮ったので、部屋の内装はこんな↓
P105s.JPG
ピンボケの写真しか撮れませんでしたが、木製のおしゃれなブラインドを開けるとバスルームがベッドルームから丸見えになるというエッチな仕様になっておりまして、サービスのレベルも含めて、さすがマンダリン。予想にたがわず、なかなかようござんした。
この部屋の最大のポイントは、窓から日銀(どの)を足元に見下ろせる点でありましょう。
P104s.JPG
日本の金融を支配したような気分を味わってみたい金融関係者のみなさんにはオススメかも知れません。
(ご参考まで。)

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「小が大を呑む合併」とは何か

「華麗なる一族」の、万俵 大介 (北大路 欣也氏)になったつもりで「小が大を呑む合併・・・」とつぶやくのが、最近の私のひそかなマイブームなのですが、よく考えてみると、「小が大を呑む合併」というのは、なんでしょ?
「小が大を呑む買収」であれば、親子関係があるのでわかりやすいですが、「合併」というのは両社が包括的に一体になるので、そもそも「呑む」というイメージではないはず。
また、「どちらが存続会社になるか」というのも、会社法的・税務的・会計的にテクニカルなお話であって、「呑む・呑まれる」といった力関係とは本来無関係なお話。
ただし、昭和40年代の都銀が、「欠損金があるので逆さ合併」、とか、「資産を時価評価するために『大』のほうが消滅会社に」、というようなこともなかったでしょうから、素直に、「力があるほうが存続会社」というノリだったのでしょうか。
「合併比率を『小』の方に有利に」ということも考えたのですが、当時は、「株価やDCFでのvaluationをベースに合併比率を算定」というノリでもなかったでしょうから・・・いったい、どうやって合併比率を決めていたのか・・・。
当時はおそらくどこも50円額面だったので、(純資産額とかもあまり考えずに)「なんとなく1:1」とか?
金利も規制金利であり、資金需要も強いので、「預金の量∝資産の量∝収益力」なので、単純に預金量で決定、だったんでしょうか?
きっと、(日本の銀行の文化的に考えれば)、「どちらが頭取になるか」という、シンプルなお話であって、会社法的・財務的なお話ではないんでしょうね。
そういえば、小学校の時、太陽銀行の寮に友達がいてよく遊びに行っていたのですが、途中から寮の看板が「太陽神戸銀行」に架け替えられたことを思い出す今日この頃。
(ではまた。)

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朝から豆乳鍋

昨年末、電車の中吊り広告の「懸念される滝川クリステルの『左傾化』」(山本一郎)というタイトルを見て、ひさびさに週刊文春を購入して読んだところ、ナンシー関氏の死後、これほど人生になんの役にも立たなくてバカバカしい文章にはついぞ出会わなかったなあという強い感慨にとらわれ、うちの奥さんにも週刊文春を渡してその感慨を分かち合ったのですが、それはさておき。
その号に載っていた、安野モヨコ氏の連載「くいいじ」を奥さんが切り抜いて取っていて、今朝は、その「豆乳湯豆腐」(←昨晩の残り)をいただきました。
モヨコ氏曰く;
「少量の水で昆布のだしを取り 豆腐ができるくらい濃厚な豆乳を大量に投入!!! 具は長ネギ木綿豆腐×2のみ!!」
「大好物です(涙)」
「昨年、京都の友人に教わってから しばらくは毎日コレを食べていた」
「塩と黒七味で、醤油と黒七味でいただく。
(黒七味)←影の主役 コレなくしては成立しない。」
とのこと。
しかし、奥さんが数軒、デパートや高級スーパーを探したが「黒七味は不定期にしか入ってこない」とのことで見当たらない。
しかたがないので、ネットで注文するとともに、とりあえず良く似た(と思われる)山椒ベースの「黒薬味」を成城石井で購入して、沖縄の塩でいただいてみました。
・・・確かにこれはうまい!
ヘルシーな上に、毎日食っても飽きもこなさそうですし。
豆腐と山椒というのは、よく考えたら四川風麻婆豆腐でも実証済みの最強タッグですな。
朝から体もぽくぽくであります。
(ではまた。)

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カノッサの屈辱2007バブルへGO!!スペシャル

昨晩の「カノッサの屈辱2007バブルへGO!!スペシャル」(フジテレビ深夜1:08〜)
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2007/070125canossa.html
は、最高!でした。
自動車電話以来の携帯電話の歴史が非常にうまくまとめられていたのですが、あらためて、新たなサービスの進展には(「神聖N帝々国」独占ではなく)「競争」が重要だということを認識させられる内容。
しかし、深夜とはいえ、大口スポンサーである携帯各社にヒンシュクを買いかねないこんな内容の番組がよくも作れたもんです。このへん、ホイチョイ・プロダクションズの絶妙のバランス感覚のなせるわざ、ということでしょうか。
Wikipediaの記述によると、ホイチョイのメンバーの方々は、安倍首相と成蹊で同級生だったとのことなので、今や、こわいモン無しなのかも。
(ではまた。)

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はじめてのVisual Basic

(気が付くと、4日もブログを書くのをさぼってました。すみません。本日も、たいした話ではありませんが。)
小学校5年の長男が、プログラミングにハマりだした模様。
最近、Excelのマクロに興味を示して、自分でマクロを記録したり修正してましたが、それでは満足できなくなったようで、この週末にマイクロソフトさんのサイトから、Visual Basic 2005 Express Edition 日本語版
http://www.microsoft.com/japan/msdn/vstudio/express/vbasic/
を無料でダウンロードして、いじりはじめまして。
Visual Basicがはたして教育用の言語として適しているのかいないのか、いろいろご異論もおありかと思いますが、このへん、
http://www.microsoft.com/japan/users/recipe/
から、インベーダーゲームをダウンロードしてきて自分でキャラを書き換えたりして大うけ。
invaders1.JPG
ま、プログラミングと言えるかどうかはさておき、私に「Visual Basic、ダウンロードしていい?」と許可を求めた以外、私の手助けは一切受けないで、ダウンロード、インストールから修正まで、全部自分で試行錯誤しながらVisual Basicの使い方を(一部)習得したというところは、親バカながら まあまあかと。
(というか、「Visual Basic、どうやって使うの?」と聞かれても、わたしゃFORTRANとCOBOLとN88basicぐらいしか実際にプログラミングしたことがないので答えられないし・・・。)
ゼロから「オブジェクトとは?」てな感じで抽象的にプログラミングを学ぶというのもなかなかしんどそうなので、自分がそのときに興味ある素材をいじるあたりからはじめるのが、最高のプログラミング学習法かも知れまへんな。
(ではまた。)

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「リスクのモノサシ」と内部統制

本日は、「企業として、どこまでのレベルで内部統制を構築しておけば世間様から許してもらえるのか」というお話。
−−−
昨日の、日本テレビの「世界一受けたい授業」の第一時限目、「危険の心理学−人はなぜ情報に惑わされるのか?」というのは、時節柄、非常に興味深い内容でした。
講師は、こちらの本;
risk_no_monosashi.JPG
リスクのモノサシ—安全・安心生活はありうるか (単行本)
中谷内 一也 (著)

を書かれた方のようです。
まだ読んでませんが、早速Amazonで発注してみました。
番組では、「日本でサメに襲われて死ぬ人は年間何人くらいいるか?」という問題を出題。
答えは、「レジャーに限れば10年に1人程度。職業ダイバー等を含めても3年に1人程度」。
映画「ジョーズ」などの印象が強く残っているので、年間平均3人くらいは死んでいるような気がしますが、サメに食われて死ぬ確率というのは、限りなく低い・・・というわけです。
また、番組では、下のような表を掲げてました。
risk_hyo.JPG
番組によると、10万人あたりの食中毒による年間死亡者数は、

1960年0.27
1980年0.017
2000年0.004

・・・と、年々下がってきており、2000年では、なんと1960年の約70分の1になってます。
番組では、「救命医療が発達したため」としてましたが、当然、食品衛生に対する認識が巷に広がったことや、食品メーカーの衛生管理態勢が高まったことも大きいでしょう。
(食中毒は、死なないまでも大きな問題にはなるわけですが、それはさておき。)
発生確率と「影響の大きさ」
番組は、「代表性バイアス」(平たく言うと、(マスコミ等に乗せられた)さわぎすぎ)について疑問を投げかけるものでしたが、では、企業側としては「発生確率」が低ければリスクを管理しなくていいのか?というと、そうではないですね。
リスクの大きさの「期待値」は、

「発生確率」×「発生した場合の影響のデカさ」

になりますので、いくら発生確率が低くても、影響度が大きいものについては管理しないといけない。
例えば。
食中毒での死亡者は、年間10万人あたり0.004人と「落雷程度」の確率なので、不二家の報道があったからといって、「他人は信じられないので外ではもう食べない」とするのは、消費者の観点からは「騒ぎすぎ」ではないかと思います。
(前述のとおり、1960年代に比べれば、平均レベルは70倍もよくなっているはずで、文字通り「死ぬわけじゃない」。)
他方、食品メーカーの立場からは、「不二家のようなこと」をやってるのが外にわかったら、企業としては存続の危機に直面するのは確実。清潔さについて、たゆまぬ改善を行わないといけないのは食品メーカーとして当然のことであります。
不二家のような老舗だと、逆に、「昔に比べたら70倍もよくなってるのに」というマインドがどこかにあったかも知れませんね。
ちなみにこれ、消費者金融業界とか証券業界などにも言えそう。
消費者金融業の昔を知っている人ほど、「年利100%を超えてた時代に比べれば・・・」と思うでしょうし。
以前、大手証券会社の重役クラスの方が、「昔は、そりゃあ悪いこともたくさんやりましたわ。がはははは。」と笑ってるのを聞いて、当時のコンプラレベルを想像すると怖くてとても「どんな悪いことだったんですか?」とは聞けなかった。(笑)
ま、悪いお手本を参考にすることはないですが。
ただ、先日書かせていただいたように、個社でなく、マクロ的な経済の観点からは、「潔癖すぎる社会」は、メリットだけでなくデメリットもある気も。
航空機の例
ちなみに、先日見た、NHKスペシャルの「危機と闘う・テクノクライシス 第3回−しのびよる破壊 航空機エンジン」
http://www.nhk.or.jp/special/onair/060711.html
も、非常におもしろかった。
航空機エンジンのガスタービンのブレードは、戦略部品なのですべてアメリカで生産しており、1本取り替えると非常に高額(確か1本70万円?くらいのブレードを、エンジン一基あたり何十本も使っている)。
日本では、このブレードが破壊されてエンジンが火を噴いたら「大問題」で、マスコミでボコボコにされることは間違いないですが、アメリカの国家運輸安全委員会は、「エンジンが火を噴いたら、空港に引き返せばいい。」という考え方。
ゴルゴ13的視点・落合信彦的視点からすると、「米国の戦略産業である航空機産業を保護するために、あえて問題を隠蔽している」と取れないことはないですが、上記のように、飛行機事故で死ぬ確率は非常に低いし、「1基でも飛べるのにエンジンが3基も4基もつけて大きな安全マージンを取っているんだから、1基くらいぶっこわれても問題はないんだ」というのは、それはそれで科学的な気がします。
BSE問題の例
BSE問題もそうかも知れませんね。
仮に、科学的にはアメリカ程度の管理をしていればBSEで死ぬ可能性は限りなく低かったとしても、日本人は「BSEのプリオンが混ざる確率がゼロです」と言われないと納得できない。結果として牛肉のコストが上がったり牛丼が食えなくても、そちらのほうを選択するんでしょうね。
実際、さほど潔癖症でない私も、「BSEが混ざってるかも」とか「期限切れの牛乳を使っています」と言われたら、そこの製品は食う気がしませんし。
ちなみに、先週、私がほうれん草のバター炒めを作ったところ、(かなりちゃんと洗ったんですが)、中によーく炒まったイモムシ君が1匹昇天されてまして。(死ぬわけじゃないと思ったので、イモムシ君だけどけて食っちゃいましたが。)
不二家事件風に表記すると「蛾の幼虫が混入」ということになるんでしょうし、これが、ファミレスで出てきたら、一応店員に、「ちょっと、これ・・・」と言うかも知れませんが、不思議なもので、ほうれん草を売った店にクレームをつける気にはならない。
「出自」(不都合が発生した経緯やメカニズム)が明らかなら、あまり騒ぐ気にならないということでしょうか。
(追記:コメント等でご指摘いただきましたが、「BSD」と書いてましたが、「BSE」の誤りでした。訂正させていただきました。)
トヨタのカンバン方式と「発生確率」
かれこれ20年以上前に、はじめてトヨタ(さん)のカンバン方式のことを知ったときに、率直な感想として、「数万個の部品の中に1つだけ不良品があったというのは、発生確率としては極めて小さいのに、なぜ製造ラインをすべて止めて検証するんだろう?”科学的”に考えてムダではないか?」と思ったのですが、重要なのは発生確率ではなくて、不具合が発生する「しくみ」を是正することなんでしょうね。
また、落雷で死ぬ確率が低いからといって、近くで雷がゴロゴロ言ってるのに、ゴルフを続行はしないですよね?「コントロールされているから低くなっている」面もあるので、「発生確率が低いからコントロールしなくていい」ということにはならない。
経済学的に正しい政府の対応(規制のあり方)は?
さて、以上のような例で、日本の政府の役割としては、「騒ぎすぎだ」と沈静化を求めるのがいいのか、あくまで国民の「ニーズ」をベースに「問題ゼロ」を目指すべきなのか。
自動車のような技術的な改良の余地がいくらでもある(上記の表でも死亡リスクのかなり高い)産業についてはカンバン方式的な果てしなき不良品ゼロ化を志向したほうがいいのか。
航空機や食品など、リスクが十分に小さくなっているものについては「騒ぎすぎ」を科学的に指摘する・・・など、産業別に対応を変えるのがいいのか?
いずれにせよ、日本の政府が「騒ぎすぎ」を指摘するということは(政治の力学を考えてみると)ありえない気がしますので考えてもムダな気もしますが、企業の内部統制のレベルの決定に関与している立場としては、非常に興味ある命題であります。
先日、セミナーで、「コンプライアンスについては、経営判断の原則といった範疇に入るしろものではなくて、どんな軽微な法令違反も認めないということにしないといけない」というような弁護士さんの話を聞いてこられた方がいらっしゃるんですが、精神論としてはともかく、ミスをゼロにするためには理論的には内部統制のコストを無限大にしないといけない・・・。実際に内部統制のレベルを取締役会で決議する場合に利益の何割ものコストを追加でかけるというのは無理なので、結局、企業の役員が実質的に無過失責任を負うということになったりしないでしょうか?(役員のなり手がいなくなったりしないかしらん。)
「エンジンが火を噴いたら引き返せばいい」という感性では、とてもトヨタ車のような品質の製品は作れない気もします。
「経営判断の原則」というのは、「ミスがあってもいいじゃないか。人間だもの。」ということで「科学的」な気がする反面、「そういう(甘い)感性」の範疇のお話だという気もします。
「日本人なら(無過失責任で)切腹」というくらいの気合でやったほうがうまくいく場合もある気がしますが、一方で、それでホントに現代的な経営ができるのかしらん?という気も。
財務報告の範囲に絞っているため、「重要性の原則」等、誤差のマージンが存在する日本版SOX法については、私はあまり心配してないんですが、法令や規程へのコンプライアンスに必要な日本での内部統制レベルというのを考えだすと、夜も眠れません。
(ではまた。)

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電通(さん)とWeb2.0時代

汐留の電通本社の下(地階)にアド・ミュージアム東京というのがあって、そこのミュージアムショップで電通4代目社長 吉田秀雄氏の有名な「鬼十則」のレプリカを売ってます。
http://www.admt.jp/
この「鬼十則」。電通さんに限らず、上場企業や大企業など、世の中に影響を与えるような大きな仕事をしてらっしゃる会社の行動規範として、また、志あるベンチャー企業の行動規範として、今でも非常にmake senseな10カ条だなあ思って拝見してました。
最近、いろんな大企業の方から、「ウチもweb2.0的な事業を考えてるんですが」というご相談をいただくことがあるのですが、「そもそも、おたくの(大企業病的な)社風では難しいんじゃないですか」と申し上げたくなることがしばしばあり、(しかし、そこは私も大人なのであまり直截な表現はグッとこらえて)、もうちょっと回りくどいご説明を差し上げるんですが、
そんなweb2.0時代においても、はたしてこの鬼十則は通用するのかどうか。
ちょっと考察してみました。
1.仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2.仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3.大きな仕事と取り組め。小さな仕事はおのれを小さくする。
4.難しい仕事を狙え。そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5.取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6.周囲を引きずり回せ。引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7.計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8.自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9.頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10.摩擦を怖れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと君は卑屈未練になる。
 
1.仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
これは、このIT・ウェブ時代に、ますます当てはまることではないかと思います。
「デファクト・スタンダード」とか「ネットワーク外部性」が、従来型産業より強く働く世界なので、「他の人から言われてやってるようじゃダメ」という度合いは、より強まっているはずであります。
2.仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
これも同様。
ポジティブ・フィードバックが強く働く世界では、先行者メリットが大きい場合も多々ありますが、電通さんは大昔から、広告やブランディングといった「情報」の性質を持つ仕事の領域で活動されていたので、吉田氏もそういう思いが強かったのではないかと妄想。
ただ、ことウェブに関して言うと、技術が急速に変化している上、機器やサービスのコストが幾何級数的に低減し、一方でユーザー数が急速に伸びるので、この「ポジティブ・フィードバック」がうまく働くタイミングというのは、一定の「窓」があると思うんですよね。(SNSとかソーシャルブックマークとかいったビジネスモデルは、かなり以前[2000年のネットバブルのころ]からあったが、それはそれで早すぎた。)
つまり、これを「早ければ早いほどいい」と解釈するのは、少なくともウェブ時代には必ずしも当てはまらない。もちろん、「受け身でやるものではない」というところは、引き続き当てはまっているのかな、と。
また、この第1項と第2項をわざわざ吉田氏が分けた意味がどこにあるのか、いまひとつよく理解してないのですが、引き続き熟考させていただきたいと思います。
3.大きな仕事と取り組め。小さな仕事はおのれを小さくする。
これはそのとおりでしょうね。
資本の原理が浸透してきた今、社員みんなが全社的(連結グループ的)な観点から重要性がある「大きな」ことを考えるという風土を形成することは、ますます大切になっているはずです。
ただし、気をつける必要があると思われるのが、「大きい」「小さい」を、何の尺度で判断するか。
今や、時価総額1500億ドルにもなったGoogleのやってることを「小さな仕事」だと言う人は誰もいないと思うのですが、Googleが検索連動型広告といった概念を最初に考えたころに、「ワンクリック10円くらいで、広告主からお金をとって媒体に掲載するようなことを考えてまして・・・」という話を聞いて「小さな仕事」と思わない人が世の中でどのくらいいたのか。(ほとんどいなかったのではないか。)
特にweb2.0的な(「ロングテール」っぽい)話は、「小さな仕事」に見えやすいので、「評価尺度に注意」であります。
4.難しい仕事を狙え。そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
今までもそうですが、特に、情報がすばやく伝わる世界になってくると、「易しい仕事」というのは、参入障壁を築けないから超過利潤が発生しない。
なんらかの「難しさ」「複雑さ」が存在することは「(サステイナブルな)成功」の必須条件になってきているはずであります。
一方で、「永遠に難しいまま」が予想される仕事だと、スケール感が出ても収益性が改善していかないので、「難しけりゃいい」ということを意図されたものでもないかと思います。
「成し遂げる」というのは、「一山超えた」という語感がありますが、「難しさ」で参入障壁や競争優位性を確保して、一定段階まで育つと後はポジティブ・フィードバックが働くようなのが事業としてオイシソウじゃないかと思います。(が、そういう楽なことを考えちゃダメでしょうか。)
5.取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
これも同様。
web2.0っぽい事業は、「しきい値」を超えると楽になるわけですが、それまでは逆に悪循環が働くので、「簡単にあきらめちゃダメ度合い」は、ますます高まっているということかと思います。
6.周囲を引きずり回せ。引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
これも、第1項、第2項と同じく、web2.0時代にはますます当てはまってくると理解させていただいてます。
「自分が『スタンダード』になる大切さ」、ですね。
7.計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
この「長期の計画」というところが、web2.0的にはかなり違和感があるところです。
「consumer generated」なメディアだと、ドライバーは「consumer」なので、既存の「計画」という概念には非常になじみにくい。つまり、「計画経済」から「市場経済」に変わる、というのと同じくらいパラダイムが転換しているお話なので。
「CGM(=consumer generated media)」とは、「(計画経済でなく)市場経済のメディア」だ、とも申せましょう。
計画性がまったくなくていい、という話ではなく、ビジョンを持つことは重要ですが、「計画」という言葉に対するイメージは、既存型産業とは大きく違うのかな、と。
「完全な絵を描いて、すべてをそれに当てはめていく」、というよりは、ある程度抽象的な成功像をイメージしつつ、状況の変化に応じて臨機応変に対応を変えていけるような、より「シナリオ的」「臨機応変的」な「計画」だったりするかも知れません。
旧来型の「計画」がないとプロジェクトが先に進められない企業では、web2.0的な活動はできないわけです。
8.自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
このへん、判断の尺度が一筋縄でいかない広告というものをプレゼンして売ってきた電通さんにおいては非常に重要な行動規範だったんではないかと推測します。
Web2.0時代においても、「consumer generated」なものを成功させるためには、「あまり深く考えずに『これがいいじゃん』と思っていただく」ための「信用(≒思考停止)」の形成が極めて重要なわけですが、他人から信用してもらうためには、まず自分で自分の話が信用できないと、というのはあたりまえのお話であります。
「ブランド形成」の基礎のお話かと。
9.頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
これも、「consumer generated」な世界では、ますます難しくなり、重要になるお話であります。
何が「祭り(フィードバック現象)」になるかわからないので、隙を許さない度合いは、ますます高まっているのではないかと。
10.摩擦を怖れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと君は卑屈未練になる。
これは、(特に日本の)Web2.0的には非常に注意が必要な条項ですね。
というのも、成功しているweb2.0的サービスというのは、結果として、既存のサービスとバッティングする部分が非常に少なく、あまり摩擦を意識しないで済む発展をしているものが多いので。
そりゃそうですよね。ネットワーク外部性的なポジティブ・フィードバックが働く世界においては、フリクションがあるとフィードバックが止まったり効率が悪くなったりするので、「ブルーオーシャン」的なものでないと生き残りにくいわけであります。
(孫子的に言うと「戦わずして勝つ」ということになりますが。)
また、日本の産業の中でも最も「摩擦」を考えなければならないのが、今やメディア系の産業になっておりまして。
市場で売ってるにも関わらず、メディアの株に手を出そうとする者は(因果関係があるのかどうかよく存じませんが、めぐりめぐって結局)逮捕されちゃうとか、著作権法があってキャッシュもだめだから検索エンジンのサーバが日本には置けないとか。
eBayにしてもGoogleにしてもYouTubeにしても、摩擦を恐れたか?と言うとおそらく恐れなかったし、卑屈でもなかったはず。そういう意味では当たっているのですが、たぶん、日本でGoogleやYouTubeと同じことをやって大成功した会社があったとしたら、今頃とっくに、東京地検特捜部のみなさんに段ボール箱を運び出されているんじゃないかと妄想する次第であります。
ということで、(もちろん、あらゆる「摩擦」を怖れずにすむ、チャレンジャーが卑屈にならなくて済む社会になっていただきたいのは当然でありますが)、(特に日本で)web2.0っぽい事業を考える場合には、これを「明らかに(大きな)摩擦が予想されるにも関わらず、それを気にするな」という意味と解するのはあまりオススメできない。
当然、どんなビジネスでも摩擦ゼロということはないですが。
戦略的には「摩擦を怖れずに済む領域」を選択し、その中での行動規範として「摩擦を怖れずに、素直に伸びてゆけ」というくらいの意味に解釈する必要があるんではないかと思いますが。
吉田秀雄様。
こういった考え方は卑屈でしょうか。
また、今の日本の社会をどうご覧になっているんでしょうか。
(ではまた。)

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犯罪・冤罪を発生させないための鉄道会社の人道的責任(なぜカメラに投資しないのか?)

周防正行監督の「それでもボクはやってない」を見て、警察、検察、裁判所のあり方に大きな疑問を持った人も多いかと思います。しかし、そもそも「全知全能でない神ならぬ人間が人を裁く」わけで、裁判官に「必ず真実を見抜いてくれる」と期待するのは、人間の能力上、無理がある。
構造的な「期待ギャップ」なわけです。
警察や検察の方々も、基本的に真面目に仕事をしてらっしゃるはずですが、「誰の目にも明らかな証拠」が無いものについて判断ミスが出るのは、ある意味仕方ない面があります。
−−−
しかし、(冤罪全般はともかく)、こと痴漢冤罪の問題についてはテクニカルにきれいに解決できるはずです。
鉄道会社が がんばれば。
 
「ムーアの法則的」に安くなっているカメラ監視システム
携帯にいまや必ずカメラがついているように、カメラはすでに1個数百円の原価になってきています。
train.JPG
たとえば4ドアの車両で上図のようにカメラを天井に配置しても十数個、原価は1万円ちょっとでしょう。
これで死角があるというなら、あと何個か増やしても、タダみたいなもんです。
コントローラーとして1車両の屋根裏に1台パソコンを設置するとしても、今やパソコンも1台5万円を切ってますから、大量に発注すれば、システムの設計費を入れても、1車両あたりの投資額が50万円を越えるとは思えない
例えば山手線は内回り外回り計で52編成あるとのことですが、
  52編成×11両×30万円
としても、、山手線全部でたった2億円弱です。
以前書いた、本人が無罪を主張して裁判していた弁護士さんに先日、「その後どうなりました?」とたずねたところ、
「結局、1年数ヶ月の判決が出て、現在服役中。すごく真面目なサラリーマンで、両手に荷物を持っていて指しか動かせないにもかかわらず、結局、『指だけ動かせれば触れるはずだ』ということになってしまった・・・。」
とのこと。
カメラがあれば、証拠が残る(少なくとも、もぞもぞしてるぞ、とか、周りにどんな人がいたとか、証人を探せるとか、格段にエビデンスが具体的になるはず)だけでなく、そもそも痴漢するやつがいなくなるはず。(私の住んでいるところに空き巣が立て続けに数件入ったので、自治会で相談してカメラを設置したところ、ぴたっと空き巣の被害は止まりました。)
おまけに、痴漢だけでなく、置き引きや暴力事件など、他の犯罪の証拠や抑止効果にもなるはずです。
ROIはめちゃくちゃ大きいはず
新型車両の投入や既存車両の改装は、一気に行わなくても、
「今後、カメラで監視することによって、社内の安全を確保していく」
とプレスリリースで宣言して何台かカメラ付き車両を投入するとともに、ホントにカメラをつける改修はまだ済んでない車両についても天井にケータイのカメラ風の小さな黒い丸のシールを貼っておくだけで、非常に大きな抑止効果があるはずです。
例えば、JR東日本さんを例に挙げさせていただくと、昨年度の投資額は4000億円弱もあるわけです。その0.1%でも投資したら、実際に痴漢・スリ・暴力なども格段に減るはずだし、無実の罪で服役したり、やってもいないのに(裁判で何ヶ月もかかったら仕事を失う可能性もあるので)罪を認める人を生み出す可能性も激減するはずなのに、なぜ、そうした「通勤電車を安心できるものにする」投資をしていただけないのでしょうか?
大変不思議であります。

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