日本郵船と商法・会社法の歴史(その2)

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昨日の記事に大杉先生からいただいたコメント;

この議決権の定め方は、持株数が増えるとともに議決権数が逓減し、100個でキャップするというものですよね。
昭和25年改正までは法律がスカスカだったために、そのような定めも許されていて、実際そのような定款規定を置く会社は多かったようで、それによって一部の大株主によって会社が専断的に運営されにくいという安心感を一般の投資家に与えていたようです。(加藤貴仁『株主間の議決権配分』より)。

株主間の議決権配分—一株一議決権原則の機能と限界
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我々現代人は「株数が議決権数に比例するのはあたりまえ」という頭になっちゃってますが、「そうでない選択肢」もありうる、ということですよね。


(このアイデアを西郷従道や日本郵船の人が思いついたとも必ずしも思えないのですが、当時のドイツでこういうのが流行ってたということでしょうか?)
ただ、この一株主当たりの議決権数にキャップを儲けると「特殊決議」的効果が出て、「3分の2の賛成が必要」というような決議を導入すると、可決が難しくなっちゃうんでしょうね。
昨日ご紹介した日本郵船百年史の資料に、日本郵船設立時の株主名簿が全員実名で載っているのですが、25株以上保有する株主だけで、なんと600人以上もいてビックリ。
今時は、証取法/金商法上の「公募」に該当しないように、設立時はせいぜい5名とか10名程度くらいまでの株主数に抑えておくのが資本政策の王道じゃないかと思いますが、募集に関する規制がないと、設立と同時に1000人オーダーの株主、ってことになるんだなあ、と。
しかも載ってる株主が1位の「岩崎久弥」以下全員個人だ!・・・・と思って良く考えたら、商法がまだない時代なんだから法人株主はいなくて当然なんだろな・・・・・と気づきました。
こういうコーポレートビジネス黎明期の資料を見ると、現代人は知らないうちに、いろんな「常識」でがんじがらめになってるんだなあ、と気づかされます。
(ではまた。)

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3 thoughts on “日本郵船と商法・会社法の歴史(その2)

  1. 早速エントリーしてくださってありがとうございます。
    明治時代には、本来的な意味での募集設立が行われていて、地元の名士が発起人となり、富裕層が株式引受人になっていたようです(高村直助「会社の誕生」161頁)。
    議決権数のキャップは、明治政府が採用させようとしたもので、明治初期に広く見られたようですね(加藤・前掲7−12頁)。当時のドイツ法やフランス法でも可能だったようです。
    明治の前半期は、取締役は社長1名以外は無給の社外者だった(執行のナンバー2、ナンバー3は「支配人」という肩書きだった)などという点でも、現在と大きな差があり、現在の常識を軽く吹っ飛ばしてくれます。・・古い話が大好きなもので、つい書きすぎました。

  2. 廃藩置県で、武士は明治政府の政府債をもらって(退職金だね。)、この債権をどう自分の飯にするかで苦労している時代ですよ。
    当時の会社等(鉄道などもそう。)は、この債権を出資させてつくられているわけだから、藩士が集るわけで、何百人にもなりますね。
    これ、歴史をちょっとかじれば常識。

  3. 次のエントリ
    http://www.tez.com/blog/archives/001211.html
    にも書きましたが、株主名簿からは、少なくとも「旧三菱」側は、藩士が多数出資してという感じに必ずしも読めない面があります。
    いずれエントリしたいと思いますが、設立時の旧三菱側の貸借対照表の資産には、出資された政府債の痕跡がありません。旧共同運輸会社側のBSにはそれらしき資産がちょっと載っているので、旧共同運輸会社はそういうかきあつめた株主で運営されていたのかも知れません。
    (ではまた。)