Google+、はじめました。

  • Facebook
  • Twitter
  • はてなブックマーク
  • Delicious
  • Evernote
  • Tumblr

6月末にテスト運用を開始して、すでにユーザーは2000万人を超えたとも言われる Google+ですが、私も先週あたりからはじめてみました。

私のページはこちら

 

201107282147.jpg

 

Google+の特徴を簡単に言うと、

  1. デザインがおしゃれ。
    使っていて、なんか気持ちいい。
  2. 「サークル」という概念で、情報を送信する範囲を変えられる
  3. ツイッターのように140文字の文字制限が無い
  4. Facebookと同様、実名が原則。
  5. しかし、ツイッターと同様に、フォロー(「サークルに追加」)するのには相手の許可を必要としない。

といったところでしょうか。

 

一言でまとめると、Google+のコミュニケーションは「普通」のコミュニケーションの感覚に、さらに一歩近づいたものだ、と言えるのではないかと思います。

 

「境界」のあいまいさ

私、実はFacebookはあんまり好きじゃないのですが、それは一つには「友達リクエスト」というのがちとうざい、ということがあります。

小学生ならともかく、普通の社会人であれば「僕たちって友達だよね?ね?」と確認を求めたりはしないわけです。
そういう意味で、日常のノリとはやや異質ではあります。

また、Facebookは原則実名なので、大学や中学・高校時代の友人を探し出すのにも便利という面はあるのですが、「面識がある」人が、すなわち「今、情報を知りたい人」とは限りません。
中学校時代の友達が温泉旅行してきた写真とか、別に見たくないこともあるわけです。

 

これに対して、Google+は「サークル」で、ツイッターの「リスト」機能のようにグループ分けができますし、自分が見たい人の情報だけを見る事ができます。

 

文字数制限が無い

ツイッターの140文字の文字数に要旨をコンパクトにまとめるというのは、それはそれでいい訓練にはなるのですが、文字数を稼ぐためにリツイート(引用)した文章を削ったり句読点を取ったりといったことを毎回やらないといけないというのは、結構しんどいということに、今さらながら気付きました。

文字数を考えなくていいGoogle+の世界に慣れてしまうと、もうちょっと、あのしんどい世界に戻るのは・・・と、心の糸がプツンと切れたようになってしまいます。(笑)

 

情報をコントロールする権利が誰にあるか?

そして、より本質的には、「情報をコントロールする権利が誰にあるのか」というところがポイントじゃないかと思います。

ツイッターは(鍵付きのクローズドなアカウントにしない限り)誰でも自由にフォローした人の発信する情報を見ることができます。
しかし、文字数が140文字に限られると、あまり複雑なことは書けませんから、「こういう場合には、これこれが成り立つ」といった前提条件やdisclaimerなどをきちんと付けられる場合ばかりではなくなってきます。

結果として、「○○は△△だ」といったツイートに対して「いつもそうとは限らないだろ。アホ。」といった、非常に不毛な批判が出たり、その誤解を解いたり、逆に罵倒したりといった、あまり生産的でないやりとりが繰り返されることになります。

「オープン」と言えば聞こえはいいのですが、全く知らない人が勝手にフォローしてきてツイートを読んで、勝手に内容を曲解して、「お前の考え方はおかしい」てなことを批判されることが続いたりすると、そこそこ精神力が強い人でも、さすがに神経がまいってきます。

個別の人をブロックもできますが、自分と考えの違う人をいちいちブロックしていくというのも非常に非生産的な作業です。

 

翻って「普通の社会」を考えてみると、「オレは裏表の無い人間だ」という人でも、家族で話をする時と、飲み会の席と、大聴衆の前で講演をする時では、話すことは変えているはずなのです。
Google+は知り合いなどを「サークル」というグループに自分で分類することで、これと同じことができます。

Google+は、この、どんな情報を誰に出すか、というコントロール権が、情報を持っている側にある、というところが非常に大きなポイントじゃないかと思います。

 

人間のコミュニケーションは「中立」なのか?

ツイッターは、いいことも悪いことも書けるので、システムとしては「対称性」「中立性」があるわけです。
しかし、食べログ、はてなブックマーク、2ちゃんねるといったサービスに書き込まれるコメントを見ると、人の心やコミュニケーションというのは、もしかして「対称」ではないのかも知れない、と思います。

食べログでも、(誰もが認めそうなすごい店はさておき)、普通の店については「すばらしい」と褒めるよりも、

「店員のサービスがなっていない」
「値段ほどにはおいしくない」
「どこどこの店に比べたらダメだ」
といったことが書き込まれているのをよく見かけます。

日頃のしがらみから離れてネットという場で客観的になると、人はそうした「中立」な意見が書けるとも考えられますが、もしかすると、そうした批判的なことを書いた方が、自分がエラくなったような気がして気持ちがいいのかも知れません。

 

一方、Facebookは「いいね!(like!)」ボタンは付けたけど、「やだね!」ボタンは付けませんでした。
「対称」「中立的」に情報が流れるしくみを考えるならば、両方付けた方がバランスが取れそうなもんですが、あえて「やだね!」を付けないという非対称性を盛り込んだところが、Facebookの成功したポイントの一つなんじゃないかと思います。

食べログに載ってる店も、知り合いがやってるわけではないからこそ「対称」になれるのであって、友達の家に遊びにいって、同じ料理が出て来たら「おいしいですー!」と言うはずなわけで。
「知り合いでない人」とは従来はコミュニケーションはあまり発生しなかったわけで、つまり「日常行っている普通のコミュニケーション」というのは、 もともと「非対称」「非中立」なバイアスがかかってるんではないかと思います。

つまり、放っておくと「客観的」ではあるけど「普通ではない」コミュニケーションが多く発生してしまうことがあるわけです。

 

Google+では、自分が望むグループだけに送りたい情報を送ることができるというのは、非常に普段の生活におけるコミュニケーションの感覚と近いんじゃないかと思います。

 

ということで、少なくとも私は今のところ非常に気に入っているしくみなわけですが、今まで、こうしたソーシャルなサービスを構築してきた人は、誰もこうした基本的なことに気付かないアホばっかりだったのか?というと、そうではないかも知れません。

つまり、あたりさわりのない情報をあたりさわりの無い人に送るのでは、人々の耳目を集める「ケンカ」とか「論争」とかは起きにくいことになります。
そうしたコミュニケーションでトラフィックが増えた方が、そのサービスは成長するわけですから、最初から、こうした「心地よい」サービスが投入されたとしても、それは成功しなかったかも知れません。

そして、そういう争いが耐えないサービスをさんざん見て来た今こそが、アウフヘーベンされた新しいサービスが受入れられる可能性がある時期なのかも知れないですね。

 

以上、AMEMIYA氏の「冷やし中華はじめました」の歌詞を脳内で上記の内容に置き換えてお楽しみいただければ幸いです。

 

イラストでわかりやすく解説したこちらのスライドも参考になるんじゃないかと思います。

http://takao.asaya.ma/article_1793.html 

(ではまた。)

[PR]
メールマガジン週刊isologue(毎週月曜日発行840円/月):
「note」でのお申し込みはこちらから。

コメントは停止中です。