経済再生を強力に推し進める「構造改革税」の導入を

預貯金に対する課税は、初めて聞くと違和感の強いアイデアであるが、深く考察していくと極めて優れた特質を持っている。預貯金をリスクマネーにシフトさせ、不良債権問題の再発を防止するだけでなく、デフレを退治し、市場経済を発達させ、かつ、年間十兆円規模の税収を確保して財政再建にも寄与する。今後、人口が減少していく成熟国家である日本が二十一世紀の市場経済の中で発展していくために必要な税であると考えられる。

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預貯金の名目金利が人類史上最低水準まで下がっているにもかかわらず、依然として預貯金への資金の流入は続いている。これほど預貯金の人気が根強いのは、デフレで貨幣価値が上がっているため、実は預貯金の実質金利が見かけよりもかなり高いためだ。しかも、預貯金には元利保証や決済機能という他の金融商品に無い絶対的なメリットがある。これらを考え合わせると、金利が限りなくゼロに近い今でも、預貯金は非常に魅力的な商品なのだ。

日本の金融資産が異常に預貯金に偏っていることはかねてから指摘されてきた点である。米国の預貯金の量が、個人金融資産に対して約十一%しかないのに対し、日本のそれは約五三%と、日本では間接金融の比率が極めて高くなっている。これはすなわち、日本では、銀行と政府(郵貯資金)が一国の金融資産の過半の運用リスクを負っていることを意味する。

こうした構造も、高度成長時代で経済の向かう方向が予測でき、規制金利で厚い利鞘が守られていた時代には問題はなかった。しかし、金融自由化で利鞘が薄くなり、不動産の下落で担保によるリスクヘッジもできない現在、世界第二位の経済大国の過半の資金を少数の銀行員や官僚が配分するというやり方が機能するわけがない。

事実、銀行や郵便貯金に流れ込んだ資金は、膨大な不良債権や、収益性の悪い特殊法人の肥大化を生んでしまった。もちろん、政府や銀行がこうした不良債権を処理できるだけの自己資本を持っていれば問題はまだ少ない。しかし、国の財政は破綻寸前であり、銀行も大量の預金(負債)により必然的に過少資本になっている。

すなわち、今の日本の経済は、国や銀行が国民に代わって経済変動のショックを吸収してくれるのはいいが、そのツケが公的資金の投入という形で、後でまとめて国民に回ってくる構造になっているのである。市場であれば良くも悪くも一瞬にして調整されることが、政治的プロセスを経るため極めて長い調整時間を必要とする。実際、バブル崩壊から十年経っても不良債権の調整は終わっていない。この調整スピードでは永久に景気が回復しなくても不思議ではないと思えるくらいだ。


●「預貯金」への課税

このため、識者の間では預貯金を資本市場(リスクマネー)にシフトさせる必要が唱え続けられてきた。現在、個人金融資産の五割を占める預貯金を、米国並の一割とまでいかずとも欧州諸国の二割から三割の水準まで下げないと、二十一世紀の激しい経済環境の変化の中では経済が持たないだろう。

このシフトを引き起こすためには、どのような方法を取ればよいだろうか。これまでも株式投資の課税を優遇するなど、資本市場に資金を呼び込むさまざまな政策が考えられてきたが、預貯金の魅力はそれを上回っており、資金のシフトが進む気配は無い。

そこで、このリスクマネーへのシフトを促す最も効果的な策として、「預貯金への課税」を提言したい。今でも利息に対して源泉課税が行われているが、ここで考えるのは預金の元本に対する課税である。

フローの物価だけで見るとデフレ率はまださほど大きくないかも知れないが、不動産や株式などのストックがこの十年で半値程度になっていることを考えれば、預貯金は年平均五〜八%の利得を生んでいると見ることができる。その利得に二〜三割の課税を行うと考える。マイルドなインフレと同等の効果を生じさせることをもあわせて考えると、預貯金の元本に対して一・五%〜二%程度の税率をかけることが考えられる。この額を預貯金の口座から源泉徴収するのである。これにより、税引き後の名目金利は大半の預貯金でマイナスになることになる。

この新税には、銀行界から大きな反発があることが予想される。しかし、この課税は結果として銀行の経営にとっても大きなプラスになるはずだ。

まず、この税の銀行に対する影響は、大方の人が抱く第一印象よりマイルドなものになると考えられる。新しい税が預金にかけられたとしても、デフレ率まであわせて考えれば、預金がなだれを打って外部に流出していくとは考えにくいからだ。

また、ペイオフを導入しても、銀行間で資金が移動するだけで預貯金全体の量にはさほど影響しないと考えられるのに対し、この税は預貯金全体から、広く浅く緩やかに資金を吐き出させるものである。

さらに、銀行はすでに預金以外のさまざまな金融商品を扱えるようになっているので、預金は減ったとしても、適切なマーケティングを行えば、投信などの形で、グループ内に資金を留めることが可能だ。

預金が減ってその他の金融商品の手数料収入が増えれば、総資本利益率が上がり銀行経営に対する市場からの評価も高まることになる。また、預貯金から流れ出た資金が株式市場や不動産に継続的にシフトしていけば、銀行の持株や担保不動産の価格の回復にもつながり、銀行が増資して自己資本強化を図る条件も改善する。

この税は「預貯金の時代が終わった」ことを強烈に宣言するものではあるが、銀行自体を否定するものではなく、むしろ、新しい時代の銀行像への転換を後押しするものである。また、産業や信用創造機能に関しては、法人の預金から源泉徴収された額について、法人税申告時に全額(または例えば九十%)の税額控除を認めることで、影響は中立に近くなるはずだ。


●「痛み」が最小の税体系

政府や与党が最も恐れることの一つは、預貯金の過半を保有している六十五歳以上の高齢者からの反発だろう。しかし、資本市場へのシフトを促すため、高齢者に対するマル優を廃止する方向もすでに決まり、流れは変わってきている。

インフレが自由に引き起こせるのであれば、税を新設して国民に嫌われる必要もない。しかし、現在の環境でインフレを無理やり発生させても、それが制御できる可能性はほとんどないだろう。これに対して、預貯金への課税は、インフレと同様の効果を持ちながら、税率や課税範囲を変えることで調節が可能である。戦後のインフレで預貯金が急激に目減りする状況を目の当たりにしたことのある高齢者の中には、何%になるかわからないインフレより、コントロールされた一・五%の課税に納得する方も多いのではなかろうか。

高齢者以外の弱者保護の観点も重要である。どの範囲を弱者と呼ぶかは難しい問題であるが、預貯金については、幸いなことに、マル優という、すでに定義された弱者の範囲が存在する。寡婦、障害者などに対してマル優と同様の非課税枠を認めることにより、弱者への配慮も納得感のあるものになろう。

この案は、将来のために備える「貯蓄」自体をダメだといっているものでもない。国債や株式など、預貯金以外で貯蓄を行う場合には、この税は賦課されないのだ。

また一般に、低所得者層と高所得者層の預貯金量の差は所得の差よりさらに大きいはずだ。このため税率は一定でも、この税は一種の累進性を持つことになる。元本に一・五%課税されるとすれば、四千万円の預貯金を持つ人には六十万円課税されるが、五十万円の預貯金しかない人なら七千五百円しか課税されない。両者とも、これが直接生活に響くということはないだろう。しかも、超富裕層については、株式や外貨、不動産などに分散投資を行っていれば、総資産に与える課税のインパクトは小さいはずである。すなわち、この税は、既存の所得税や消費税よりも「弱者」にやさしく、しかも、「チャレンジャー」が大金持ちになる夢を打ち砕くこともないのである。

さらに、この税は、消費税と違って、導入の際の事務的な影響も小さい。源泉徴収義務者は、日本でも最もコンピュータに強い銀行や郵貯などの金融機関だけであり、一般の人は、良くも悪くも、通帳に「ゼイキン」と書かれた一行を目にするだけである。企業でも、消費税導入の時のように、会計システムやレジの変更、社員教育などに追われることもない。


●日本の構造を変える効果

預貯金からの資金シフトの一部が継続的に株式市場に回るようになれば、株式市況の回復、資本市場の発達につながる。日本が二十一世紀のグローバル市場経済の中で生き延びて行くには、市場メカニズムの発達が欠かせない。この新税を「構造改革税」と名づけて、政府の資本市場発達への強力なコミットメントを示すことで、資金のみならず、「チャレンジャー」達も、資本市場関連その他の新規事業領域に移っていき、日本の資本市場や産業構造を質的に変えていくはずだ。

さらに、この税の導入により、日本を不良債権問題が発生しない構造に転換することができる。国民が直接、リスク資産を持つ度合いの高い米国型の構造に近づけば、良くも悪くも市場の変化のインパクトは直接、国民に伝わることになる。しかし、個々人が、自分の負担能力に応じてリスクを負っていれば、そのインパクトに生活を破壊されることはない。

銀行や政府が国民の金融資産の過半の運用のリスクを一手に引き受けると言う構造を変えれば、景気変動が起こっても、再び不良債権問題が発生することを防止できる。例えば、銀行業界だけで年間十兆円の不良資産を処理しようとすれば経済全体が悲惨なことになるが、個人金融資産千四百兆円全体でリスクを受け止めれば、十兆円は全体に対してわずか〇・七%にしかすぎない。すなわち、間接金融の比率を下げることで、日本の経済は、経済変動のショックに強い「柔構造」に変えることができるのである。

個人金融資産が今後十年で倍増していくとし、預貯金の量を今後横這いに抑えることができれば、個人金融資産に占める預貯金の割合は、十年後には現在の半分程度(個人金融資産比二五%程度)と、米国以外の先進国並みにすることができる。

この課税には、リスクマネーへのシフト以外の効果もある。まず、税収が増えることにより、財政再建に寄与する。仮に、個人の預貯金約七六〇兆円に税率一・五%を課するとすれば、年間十兆円程度の税収増が生まれることになる。

これで財政再建の目処がでてくれば国債の格付けも回復し、金利も低いままとどまることになる。国債の元本には課税されないので、無利子で元本の保証もないタンス預金に大量に資金が流れることもない。国債の格付けがこれ以上引き下げられて日本が「三流国」へ転落することを回避できれば、政府のみならず国民経済の安定にも大きなプラスになるはずだ。

以上のように、この税は第一印象では違和感が強いかも知れないが、導入に成功すれば一石四鳥、五鳥の効果が期待できるものなのである。しかし、導入にあたっての最大のネックは政治家の決断力だろう。「増税イコール選挙での敗北」という固定観念を持つ政治家は、この案を押すことを躊躇するはずだ。筆者は、本稿を書くにあたって、官庁、金融機関、大学、マスコミなどの識者の方々にこの案をぶつけてディスカッションさせていただいたが、ほとんどの方に「非常に興味深い案だ」と言っていただいたものの、話の最後には必ず「でも、日本の政治家がこの案の導入を意思決定できるわけがないよね」というオマケが付くのである。

現在の日本は、まさに人類史上前例のない状態にある。この税の導入がプラスの効果を持つのは、経済がデフレに陥っており、政府の財政状態が極めて悪化しているにもかかわらず、国全体としては大量の金融資産があり、しかもそれが低利の預貯金に大きく偏っているという、極めて特殊な状況の時のみである。そして現在の日本は、幸か不幸か、今まさにそうした極めて特殊な状況に陥っている。前例や他国の事例に頼っていて解決策が見つかるわけがない。預金の割合の小さい米国では意味がない税なのである。今こそ、真に国家のためを考えた政治家の決断が求められる時なのだ。

さらに、日本は、高齢化・少子化が進み、あと数年で人口が減少し始めるという、もう一つの、過去に例のない状況に突入する。消費や法人・個人の所得が細っていく中で、フローだけに課税して財政を立て直すのは至難の業である。これまでの蓄積(ストック)とフローの両方にバランスよく税金をかけ、世代間格差を是正するのは、今後の社会に非常に適した税体系ではないだろうか。

日本には金融資産が大量に存在する。これが有効活用されずに預貯金に流れ込み、それが不良債権化して国が滅んで行くのは、文字通り「宝の持ち腐れ」であろう。真の経済再生を実現するために、今が、この「構造改革税」の導入を真剣に検討する時ではないだろうか。

変わりゆくベンチャーファイナンスと日本

●日本経済全体の問題を反映するベンチャーファイナンス

本稿では、米国シリコンバレーのファイナンスのモデルを参考にしながら、それを日本のベンチャー界に適用するために、どのような取り組みが行われてきたか、また、今後、それを日本に根付かせるために何を行っていけばいいのか、を考えてみたい。

シリコンバレーのベンチャーファイナンスと日本のそれを対比させて考えるには、まず、日本と米国の金融の土壌の大きな違いに目を向けなければならない。米国では、今から約25年前の1975年5月1日の通称「メーデー」と呼ばれる改革によって、取引所と取引所外の市場が互いに競争すべきことが法律にうたわれ、株式の売買手数料が自由化された。英国も86年には自由化を行っている。しかし、日本ではこの証券市場の自由化が行われたのは、1999年10月である。つまり、日本の資本市場の本格的な改革はほぼ四半世紀の周回遅れで、つい最近スタートしたばかりなのである。この四半世紀の間に、欧米の資本市場は非常にソフィスティケートされたものになっていったのに対し、日本はまだ進化の途についたばかりというわけだ。こうした環境の大きな違いを無視して、両国のファイナンスを同列に比較するわけにはいかない。

経済を人間の体に例えて言えば、金融というのは心臓や血管などの循環器系に相当するものである。循環器系だけで人間の体が成り立つわけではないが、それが体(国)の性質を決める最も重要な要素の一つであることは間違いない。さらに言えば、後述の通り、現在の日本の最も重要な問題である、不況、不良債権問題、特殊法人問題なども、すべて、この金融の構造に起因するものであると考えられるのである。

ベンチャーのファイナンスというのは、いかに「毛細血管」に血液を回すか、という問題である。しかし、それは「些細な」問題ではない。ベンチャーというのは、「体」の中で最も成長する部分に相当するからだ。また、「毛細血管」の問題を考えるためには、循環器系全体について考えておく必要がある。このため、まずは、日本の心臓を中心とした循環器系全体を俯瞰して見ることとしたい。


●間接金融に極度に依存した日本のファイナンス

日本と米国のファイナンスの差は、下図の個人金融資産の構成比率に端的に表される。

図.家計の資産構成(2001年6月末)

(資金循環の日米比較:2001年2Q(日本銀行調査統計局)を元に加工)

従来、日本の資金の流れは、間接金融、すなわち銀行などの金融機関を介したものが中心であった。すなわち、日本の「心臓」は銀行であったわけである。「不況」と言われて久しいが、現在、日本の個人金融資産は1400兆円を超える膨大な量に膨れ上がっている。そして、この個人金融資産の約6割、760兆円もの額が、銀行や郵便局に「預貯金」として流入する構図になっている。これに対して、図の通り、米国では預金の割合は11%程度、ヨーロッパ諸国でも3割程度しかない。間接金融と同じかそれ以上に直接金融が発達し、それが「第二の心臓」となっているのである。

戦後、日本では預貯金は「奨励されるべきもの」として、その残高を伸ばしてきた。戦後の復興の投資と成長の方向性が決まっている環境下では、官庁と銀行が協力し、重要な分野に重点的に資金を配分することが極めて有効な方法であったと言える。しかし、高度成長は終わり、環境は大きく変化した。銀行の、預金を集めて貸付を行うビジネスモデルは「預貸(よたい)」と呼ばれるが、このビジネスモデルの性質の変化を考える上で、二つ大きなポイントがある。

一つは利鞘の問題である。日本では戦後から高度成長期を通じて金利に対する規制が存在したが、この金利の自由化が1989年の大口定期から始まった。従来は、規制金利の下で十分な利鞘を確保して確実に儲けることができたが、この自由化により利鞘は急速に縮まっていった。

二つ目は、担保の問題である。日本の銀行貸出は、従来から担保主義を原則としており、現在でも担保のない企業は資金の借り入れは難しい。担保のほとんどは土地である。高度成長時代には、土地の価格は必ず上がっていき、いわゆる「土地神話」が形成された。こうした環境下で、土地の時価の7割8割程度の貸付を行えば、たとえ貸付先の企業が倒産しても、土地には貸付時よりさらに含みが増しているので、担保の処分等により最終的に資金が必ず回収でき、不良債権は絶対発生しないしくみになっていた。つまり、預貸というのは、実質無リスクで、確実に儲かる仕組みであったわけである。

しかしながら時代は変わった。利鞘の縮小と土地価格の下落で、銀行の預貸というビジネスは、極めて利益率が低くリスクが高い事業に変貌してしまったのである。それが少額ならともかく、資産ベースで1400兆円の個人金融資産の5割以上もを占める事業になってしまっている構造は大問題である。不良債権問題は、こうして構造が変化したために必然的に起こったものであると言えよう。

では、こうした構造変化に気づいた今、現状の不良債権さえ整理すれば二度と不良債権問題は発生しないのであろうか。いや、不良債権問題は必ず再発する。なぜなら極めて巨額の資金を使う事業の利益率が低く大きなリスクにさらされている構造自体が何も変わっていないからだ。景気の循環というのは今後も必ず発生するから、企業の何%かが倒産するという事態は必ず今後も起こりうる。個人金融資産の5割超が預貯金という状態になっている限り、景気変動の際の100兆円単位のインパクトがわずか130行程度の銀行(中小・農林水産系金融機関を除く。以下同様。)に襲い掛かることは避けがたい。このままの状態で次の景気変動が起これば、必ず資産は劣化し、損失を銀行の自己資本でまかないきれなくなり、公的資金が投入される事態が必然的に発生するのである。


●求められる直接金融へのシフト

この構造変化のせいで、銀行という「心臓」は、かつてのように、日本の産業に向けて力強く血液を送り出すポンプの役目を果たさなくなり、日銀が資金をいくら注入しても、市中の企業に資金が出回らなくなってしまった。つまり血圧は低下し、毛細血管まで血がうまく回っていない。このままでは、本来元気に成長すべき末端の成長点まで血液が回らず、国の未来を担う部分から「壊死」していくのが確実である。

この状況を打破するためにはどうすればいいか。壊死しかかった企業のうち助かるものは助けるのは対処療法として必要であるが、日本を蘇らせる本質的な解決策にはならない。本質的な解決策は、末端まで新鮮な血液を送れる力強い「第二の心臓」すなわち、株式市場を中心とする「直接金融」を発達させることである。

 直接金融市場を発達させ、資金を米国のように、預金中心ではなく株式・債券や投信中心にシフトするということはどういうことであろうか。

 それは、国民が直接リスクを負う部分が増える、ということである。日本では「リスク=バクチ」という観念が強く、それを国民に負わせるとは何事か、という拒絶反応が出てくることが容易に想像できる。しかし、リスクといっても国債やMMFのように極めて低いリスクのものもあれば、株式のように高いリスクのものもある。国民それぞれのリスク選好度にしたがって、好みのリスクとリターンの商品を選べるのである。

 また、国民は、銀行に預金を預けていれば直接にはリスクが無いように見えるが、公的資金が投入される構造が変わらなければ、それはいつかは税金という形で国民に回ってくるのである。日本のバブル崩壊後の軌跡を見れば明らかな通り、公的資金の投入は政府や国会といったところで意思決定に極めて長い時間がかかるため、景気の回復がそれだけ遅れることになる。日本では90年代の「失われた十年」が、10年では終わらず、20年、30年と続いていくのではないかということが危惧されているが、このようなボトルネックがある調整方法をとっている限り、そうならないほうがおかしい。これに対して、直接金融にシフトした構造では、インパクトは国民に直接来るが、調整は一瞬にして行われる。直接金融にシフトした構造では、瞬間的には国民負担は大きいが、国民全員の1400兆円の個人金融資産全体で受け止めれば、回復の早い「柔構造」にすることができるのである。

間接金融から直接金融に、大量かつ継続的に資金シフトを起こすことができれば、すべてはうまく回りだす。資金が国債市場に流れ込めば、国債の金利も下がって政府の財政再建も安定的に行えるし、株式市場に流れ込めば株価が上昇し、銀行の持株の価格も上がり、自己資本の増強も行いやすくなる。銀行から資金が流出することは、銀行の凋落のように見えるかも知れないが、預金量が減って自己資本比率の高い筋肉質の銀行に生まれ変わることは、「弱った心臓」である銀行自身を再生させることにもつながるのである。


●ベンチャーファイナンスの量は十分か?

さて、「毛細血管」であるベンチャーに話を進めよう。

ベンチャーも企業であるから「経営」が必要である。経営には「ヒト・モノ・カネ」、すなわち、優秀なマネジメントやスタッフ・社員の獲得、技術、優れたマーケティング、外部のプロフェッショナル・サービス、そして資金調達など、総合的な要素が必要である。すなわち、ベンチャーを育てるということは、資金や技術単体の問題ではない。

この数年間、日本でも「ITベンチャーバブル」と言われる現象が存在した。今回の日本のバブル(以下「ブーム」と呼ぶ)に対しては批判も多いが、一方でこのブームは、日本のベンチャー市場に大きな位相の変化を生む役割も果たした。それを以下に見ていこう。

まずは、資金面の状況とその変化について考えてみたい。今回のブームにおいて日本のベンチャーに供給された資金量は、せいぜい数百億円〜数千億円単位であって、米国の今回の「バブル」でベンチャーに投じられた資金の数十分の一に過ぎなかったと考えられる。しかし、その資金すら投資しきれないほど、日本のベンチャー企業の数は少なかった。ベンチャーファイナンスの現状は、資金不足というより資金過剰であり、若いベンチャーが過剰な投資を受けてスポイルされていく例も多かった。短期的には、問題は資金の与え方、企業の育て方など、「毛細血管」の質の問題であり、量の不足の問題でないことは間違いない。

しかし、それでも中長期的には、より大きな資金の流れが必要なのだ。日本では、ベンチャーは中堅中小企業と同義に近いが、米国ではベンチャーが大企業に成長し既存の大企業と対等に戦えるようにまでなるのはご承知の通りである。日本では、まだこのようにベンチャーが大企業と伍して戦うまでになる成長をバックアップする資金の「大動脈」が形成されていない。

具体的には、たとえば、日本ではベンチャーキャピタルなどの投資家は、あまり高い持株比率になることができない。それは、安定株主比率が低いと株式公開そのものが困難になることがあるからだ。本来、未公開の段階のキャピタルゲインの投資家が大量の株式を持っていても、公開後にベンチャーキャピタルから徐々にバトンタッチして株を譲り受ける主体があれば、マーケットでそれは消化できるし、株価にも影響を与えないはずである。日本では、投資信託など、公開後に小型株を吸収してくれる主体が米国に比して発達していないのである。すなわちそれは、資本市場自体がまだ十分発達していないからに他ならない。

ベンチャーをやろうという人間は、大企業のすき間を狙ってそこに安住しよう、という人間ばかりではない。既存の大企業などよりもすごいことができるかも知れない、というのでなければ、「夢」の大きさとして、優秀な人材を大量にベンチャー界に引き付けるには不十分なのである。つまり、ベンチャーを活性化させるためには、毛細血管、すなわち初期のスタートアップ時の資金供給の量だけを増やせばいいのではなく、やはり「新しい心臓」である資本市場を含めた「循環器系」全体の大規模な変革が必要なのだ。資本市場に大量の資金が流れ込むことによって、金融サービスのマーケット自体が拡大し、人材が既存の企業からシフトしてくる。結果として「血管」の質は向上していくのである。

また、ベンチャー企業は、特にスタートアップして間もない頃には、資金に余裕があるわけではないため、優秀な人材に来てもらうためには、ストックオプションで「出世払い」を約束することで金銭的な魅力を付けるしかない。しかしこれも、個人を含むさまざまな主体が参画して、株式市場の価格形成が合理的に行われているという期待が働かないと、魅力に説得力がなくなってくる。

さらに、エクイティで投資家から資金を集めるということは、投資家にキャピタルゲインのリターンを約束しなければならないから、会社は株式公開を目指すか、会社売却(バイアウト)を志向しなければならない。このためには、株式市場やM&Aの市場が育っている必要がある。

以上の通り、ベンチャーへの資金供給をうまく行うためには、やはり、株式市場に潤沢な資金が継続的に供給され、直接金融市場全体が発達していくことが必要なのである。


●大きく変わった日本のベンチャーキャピタル

日本には、今までも銀行・証券・保険・ノンバンク等の金融機関系のベンチャーキャピタルが存在した。しかし、伝統的な日本のベンチャー投資は、すでにキャッシュフローが潤沢な公開直前の企業に出資をしてキャピタルゲインを得ることが中心であり、創業したばかりの企業にリスクを取ってファイナンスすることは極めて少なかった。ベンチャーキャピタルのファンドへの出資者も、銀行や生保などが多かったから、あまり大きなリスクを取れる性質の資金ではなかったということもある。

今回のブームでは、そこも大きく変わった。事業会社系などの新しいベンチャーキャピタルが登場したこともあり、ベンチャーキャピタル市場に競争が発生し、スタートアップにも資金が投入されるようになった。資金の供給元である投資家も、金融機関以外に、事業オーナーなどの比率が増え、ファンドとしてリスクを取れる構造にシフトした。

しかし、創業間もないビジネスプランもできていないような企業に、「青田刈り」的な投資が行われる弊害も生まれた。従来のベンチャーキャピタルは、投資契約も結ばずに投資するところが多く、非常に高いバリュエーション(企業評価)で、普通株で大量の資金を投下して、極めて小さいエクイティのシェア(持株比率)しか持たないことも多かった。米国のベンチャーキャピタリストは、ノウハウ提供や人材斡旋など、「ハンズオン」で企業に対するサポートをしている。米国のベンチャーキャピタルといえども、大半は「個人事業」的であり、良くも悪くも投資判断は個人的な投資センスに依存するところが大きいから、米国のベンチャーキャピタルは神格化されすぎている面も無いではない。しかし、米国のベンチャーキャピタルは、過去の投資の失敗によって、リスクを抑え育成をやりやすくするためのノウハウが蓄積されている。それらのいい面をさらに吸収し、今後もうまく日本の慣行や制度の中に吸収していくべきである。


●ベンチャー企業の社会的意義

そもそも、ベンチャー企業というものが存在する社会的意義はどこにあるのであろうか。従来の日本では、成長領域はある程度確実であった。そうした世界では、経営は官庁や銀行や大企業にまかせておけばいいし、必ず儲かることがあるのであれば自分の会社の持分である株式をわざわざ人に分け与える必要はないので銀行借入によって資金調達するのが正しかったといえる。

これに対して、90年代以降は、「きちんとやれば成功する」時代から、何が成功するかわからない適者生存のメカニズムに律される時代に入った。ベンチャーキャピタリストというのも、そうしたメカニズムに揉まれる一市場参加者であって、未来を予言する「神」ではない。また、「必ず成功するベンチャー」などというものも存在するわけがない。どのアイデア・どの経営者が成功するかわからない、未来に不確実性がある環境下で、投資家や企業それぞれがリスクを取り、その中から「たまたま」環境に適合した企業が生き残る「自然淘汰」の厳しいモデルが、米国のベンチャー市場の姿なのである。

銀行は、企業の倒産による債権の焦げ付きを負担し預金者には元利を保証するため、リスクを一手に負う構造になっている。こうした構造下では、資金供給先の企業が調子が悪くなれば銀行の不良債権がたまるだけで誰も得をしない。しかし、ベンチャーキャピタルは有限責任パートナーシップのようなファンドで資金調達を行い、失敗しても成功しても、そのゲインやロスの大半は、投資家に還元される形態を取っている。このため、ベンチャー投資では、投資した10社中9社がモノにならなくても、1社が株式公開して20倍の価値になれば、投下された資金は2倍にもなりうる。ベンチャー企業が倒産しても、経営者も多額の借金を背負い込み自己破産に追い込まれる、というような悲惨さはなく、やり直しもきく。もちろん、従業員も取引先も大迷惑を被るわけで、倒産がハッピーになるわけではない。しかし、ファンド全体・社会全体で、うまく投資先のポートフォリオが組まれていれば、マクロ的に見て、ショックに強い「柔構造」になるのである。

日本の不良債権額は100兆円のオーダーになると言われ、大問題になっているが、個人金融資産が1400兆円もあれば、100兆円はそのわずか7%程度の額である。この額が10年間で発生したとすると、毎年に直せば、それは国全体の「研究開発費」や「教育費」として考えてもおかしくない程度の量である。問題は、少数の銀行にリスクが集中して公的資金の投入が必要であるため処理が長引くことと、何年分もツケを溜め込んでしまうことであって、損失が出たときに速やかにそれが処理され、その教訓を次に生かすことができれば、このくらいの企業の不良化は、量的にも十分吸収可能であるし、その投資によって次世代の経済が作られていくのであるから、意義もあるのである。

また、ベンチャーの働きとして、社会のスピードを加速し、社会の厚生をより高い状況に修正する機能も考えられる。たとえば、米国の独立系ADSL業者はすべて淘汰されたが、もしこうしたベンチャーが出現しなかったら、腰の重い米国の既存通信業者(baby bells)が、こうした回線スピードの高い新しいサービスに速やかに取り組んだであろうか?また、Netscapeの出現無しに、Microsoftがこれほど大胆にインターネット市場に目を向けただろうか?いくら、社内スタッフやコンサルタントがそれら企業の経営者に「時代がこう変わります」と進言したところで、具体的に脅威が見えないと大企業は動かないし、動かないのは合理的であるともいえる。仮に最終的に既存の大企業が勝つことになったとしても、技術革新の成果を速やかに社会に実装し、既存企業の大きすぎる利潤を削って消費者に還元するためには、こうしたベンチャーの出現は欠かせないのである。


●着実に進みつつある制度面の変革

今回の「ブーム」は、制度の変更に促され、またブームが制度の変更を促すことになった。

今回のブームは、米国のITブームの影響もさることながら、日本にも1999年から「MOTHERS」や「NASDAQ Japan」などの新市場が作られ、そこに若いベンチャーが上場する道が開かれたことが大きい。こうした市場の登場は、闇の勢力の関与が噂される企業の上場や、公開した企業のその後の企業の業績が振るわないこととあわせて、批判の対象となっていることも事実である。

しかし、こうしたことは、日本のベンチャー企業が成長していく上で、必ず通らなければならない道であったといえる。ベンチャーが発展するための条件は極めて多岐にわたり、日本の制度の構造に深部にまで複雑に絡み合っているため、すべての問題を事前に予測し解決してから制度の変更を行うなどということはできるわけがない。まさに「ベンチャー的」なやり方ではあるが、問題が出ることは承知で実際にやってみて、道を探していくという方法以外考えにくい。

また、東京証券取引所は従来は「役所以上に役人的」と揶揄されたものだが、MOTHERSの創設と同時に、有望上場候補を自らの足で探す「営業」を行うようになった。また、2001年11月より、組織を株式会社に移行して、よりフレキシブルに経営が行えるようにした。

法令や規定などの改正も進んだ。今回のブーム以前は、スタートアップ企業へのベンチャーファイナンスというものが行われたことはほとんどなかった。今回のブームで、実際に、米国のように創業者持株の3倍10倍といった株価での投資を行ってみることによって、さまざまな問題が浮かび上がっていったのである。

たとえば、優先株の活用について考えてみたい。米国ではベンチャー投資に優先株が用いられる。創業者と株価で大きな差をつける代わりに、「後で企業価値が下がった場合に普通株に転換する比率を変える」とか「清算時に優先権をつける」など、投資家にさまざまなリスクヘッジの手段を与えている。ところが従来、日本の公開前規則では、公開申請期の直前決算期末までに、これを普通株に転換する必要があり、結局、公開直前には投資家はリスクヘッジの恩恵を被れなかった。また、優先株は非常に膨大なドキュメンテーションを要するが、弁護士などにも、こうしたノウハウがある人は極めて少なかった。結果としてコストは高くなり、優先株を使って投資を行うインセンティブもわかなかった。こうした制度上のゆがみも、ベンチャー界や専門家の声が取り入れられ、2001年9月より直前決算期末を優先株のまま持ち越すことが認められ、相当改善された。また、こうした声は、法務省や経済産業省などをも大きく動かし、ストックオプション制度その他の商法改正など結びついた。

まだ、完全ではないが、シリコンバレー型のベンチャーが出現する下地は徐々に整えられつつあると言えるだろう。


●厚みを増した人材の層

制度の改正や資金も大事だが、ベンチャーに最も必要な経営資源は「人材」である。このベンチャーに適した人材の層が、日本では従来、非常に薄かったが、今回のブームにより一定の厚さを見ることになった。

既存の日本の中小企業が「マラソン」だとすると、米国流のベンチャーは「駅伝」のようなものである。一般に、新しいアイデアを思いつくとか、すばらしい新技術を開発した創業者が、従業員百人千人の企業を率いるのに最適な人材とは限らない。マイクロソフトのビル・ゲイツ氏のように、創業者がずっと経営に関わるケースもあるが、米国のベンチャーでは一般に創業者は会社が大きくなって新たなフェーズになると、創業者利得を得て、次の最適なランナーに「たすき」を渡たしている。また、たすきを受け取る、そうした「経営のプロ」の人材層も厚い。

これに対して従来の日本では、優秀な人材は大手企業に囲い込まれており、いくら誘っても、これらの人々をベンチャーに呼び込むのは難しかった。しかし、今回のブームは、従来のベンチャーブームの際とは異なり、大手企業や銀行・証券、コンサルティング会社などから、多くの人が参画することになったことが大きな特徴である。90年代を通したバブル崩壊の余波を受けて、日本の大企業の経営が悪化し、雰囲気がよどんだ企業が増えていたため、潜在的に大企業等既存企業脱出のポテンシャルは高まっていた。その上で、特に、海外業務担当者、海外留学経験者、外資系企業勤務の人など、海外に目が向いている人を中心に、米国のITベンチャーの状況が目に飛び込んでくることになった。

「ブーム」の去った現在では「B2C(Back to Consultant)」「B2B(Back to Bank)」などと言われて、人材は再び従来産業に戻っていく動きもある。しかし、このブームで、確実に、日本の人材流動化は新しい局面に入り、人を動かすためのノウハウ、人材紹介会社とその使い方のノウハウが社会的に蓄積されたのは間違い無い。

今後、不良債権処理やリストラなどで、大手企業から大量の失業者が出ると予想されている。これは暗いニュースのようだが逆に考えれば日本経済にとっては大きなチャンスだ。不良債権の重圧によって、既存の大企業の中で新しいチャンスにチャレンジできずに悶々としていた優秀な人材が、一気に解き放たれることにもなる。日本では、従来は本流から外れた「できないヤツ」「へんなヤツ」から辞めることになって、いい人材は社内に溜め込まれていたのだが、大企業の淘汰が進めば、「できるヤツ」も「へんなヤツ」も、まとめて野に放たれることになる。

日本の場合特に、既存の安定した企業で働いている人を誘おうと思ったら現状の処遇条件よりよほどのプラスアルファの条件を準備せざるを得なかった。これでは、通常はベンチャーが大企業等に勤める人材を引き抜くことは無理である。しかし、既存企業がどんどん破綻・業績不振に陥れば、ベンチャー側はそのリスクプレミアムに相当する上乗せを払う必要がなくなるし、応募者の母数も増える。日本の場合特に、優秀な人材は「カネ」だけでは動かない。ストックオプションなどのツールは最終的にベンチャーに移ってくれた人に報いるために必要であるが、それを目当てに転職してくれる状態からは、まだ、程遠いのが現状である。

また、長年、既存企業に人材が固定化されてきたことにより、日本の労働分配率は過去最高レベルに達しつつある。既存企業の中では大きく給与体系を見直すことは難しいからだ。労働分配率が高いということは、資本家(投資家)への分配率が低いということであるから、それは株式投資のうまみを減少させ、「新しい心臓」になるべき資本市場に資金が回りづらい要因になっている。行き詰った企業が大量に破綻してゆけば、この状況がマクロ的に改善される大きなチャンスになる。

ベンチャーに転職する人のマインドの変化も重要だろう。大企業などから直でベンチャーに転職して来ると、一般論として、転職者の頭の隅に「来てやった」というマインドが残ってないとも限らない。しかし、一度失業し職探しをして、自分の「相場」を体感してからベンチャーに応募してくれれば、失うものが無いゼロリセットの状態から新しい仕事に取り組むことができる可能性が高い。

日本経済は、すでに従来の形を残して新しいものを作ろうという発想では維持することが無理になってきている。「明治維新」や「終戦」など、そうしたゼロリセットは、日本人は得意だ。今回の「ブーム」によって蓄積されたノウハウが、こうした「爆発」を吸収し、次の時代を形成していくベースになるだろう。


●おわりに

制度の改革とベンチャー経営の経験者などの人材の土台は整った。あとは、資金の流れを大きく変える取り組みを残すのみだ。

新しいものにチャレンジしない国は滅びるしかない。すでに見てきたとおり、ベンチャーを育成する環境にすることは、日本の根源的な問題を治すことと表裏一体だ。

今後、おそらく日本はしばらく冬の時代が続くように見えるだろう。しかし、その雪の下の土の中には、すでに春を待つ芽が芽吹こうとしている。正しい処方箋を実行すれば、日本の再生はあると強く信じたい。

以 上