「脳の時計、ゲノムの時計」

■生命科学と社会の間をつなぐ「英知」の書

二十一世紀を迎えた今年の正月、ふと「うちの五歳と二歳の子供は、おそらく二十二世紀(!)を見ることになるんだろうなあ」というようなことを考えた。生命技術が二十世紀末に飛躍的に発展したため、彼らは人類の本来持っている寿命まで(またはそれ以上に)長生きする可能性が高い。
遺伝子操作など最先端の生命技術が産業として確立されるのには、もう少し時間がかかるだろうが、そうなる前から、生命科学は社会に対して「哲学的」な影響を非常に強くあたえるだろう。生命科学で、生命の仕組み、意識や思考の仕組みが解き明かされるにつれて、「人間とは何か」「機械と人間の境界はどこにあるか」「死とは何か」といった、人間や人生を深く見つめるきっかけが生まれていくと考えられる。


●「技術」より「人生の質」を

本書の邦題は「脳の時計、ゲノムの時計」、表紙の帯についているキャッチコピーは「ヒトは〇・五秒前の過去に生きている!」である。このため、本書は、一見、生物学的な時間処理を中心とした科学知識が中心の本に見える。しかし、実は本書は、近視眼的な技術志向になりがちな科学者や世間の傾向を憂慮する本であり、技術より優先されるべき「英知」があるべきだ、ということが本書の基本メッセージになっている。
また、最近、「遺伝子の操作はどこまで許されるか」「クローン人間を認めるべきか」といった生命科学に関わる倫理的な問題がマスコミでも特集されている。本書は、そうした、ややジャーナリスティックで一般受けしそうな倫理の問題というよりは、医学と社会のバランスを考える上で重要な、よりマクロな論点を取り上げている。
本書の第一章から第三章までは、感覚・意識・記憶・無意識等について、現在までの生命科学の研究で得られた様々な知識を披露しながらの説明が行われている。「科学」や「科学者」自体も、こうした情報処理の影響を受けて行われている、という主旨である。
第四章では、ウイルスや原虫などの微生物との戦いの歴史と、最新の免疫学の観点からのしくみを紹介している。遺伝子数が少ない微生物は、頻繁に変異しながら免疫機構をかいくぐる。科学者や企業は、単発で効果の高い新薬開発に精力を注ぎがちであるが、著者は、そうした戦略は間違いであることを力説している。
第五章では、ガンとの戦い方について書かれている。ガンも、高度な最新生命技術でないと解決できないものより、喫煙の抑制や運動・食事など、低コストに回避できる範囲の方がはるかに大きいことを述べている。
第六章では、死について説いている。著者は、死を、克服すべきものではなく「意味あるもの」としてとらえ、医学は不死を目指して無駄な努力をするのではなく、ゲノムによって割り当てられている寿命を、高いクオリティでまっとうすることを目的とすべきである、としている。
著者は、先端科学の興味の対象とはなりにくい地味な運用などで非常に効果が高い方法が考えられ、また、そういう方法のほうが、人々を幸福に導けると考えている。しかし、今後の社会は、それとは逆に、革新的な研究へ傾注し、社会全体で考えて合理的な方向よりは、「不死」の追求など、個々人が望む著者の理想とは異なった方向に進む可能性が高いように思われる。なぜなら、われわれの社会もDNAの自然淘汰のしくみと同様、「計画性のない」自由主義が勝ち残っており、それは、自然淘汰の方向と同様、実際、非常に「強い」しくみであるからである。
生命技術は情報通信技術などに比べても相当ややこしく、その社会との関係は理解されにくい。経済学の「市場の失敗」的な状況に陥らないためにも、本書を読んで生命科学の発達した社会のあり方を考えてみられてはいかがだろうか。


■この本の目次


第1章 感覚 − 発生時計と脳の時計
第2章 意識 − 「いま」とはいったい、いつなのか
第3章 記憶と無意識 − ヒトを科学に駆り立てるもの
第4章 侵略の恐怖 − 微生物との戦い
第5章 暴動の恐怖 − がんとの戦い
第6章 死の恐怖 − 生の有限性を見つめる
結論
付録 人道的な医療科学のための覚書


■著者・訳者のプロフィール

Robart Pollack
分子生物学者。コロンビア大学生物科学部・元学部長。DNAの二重らせん構造の発見者ジェイムス・ワトソンのもと、がんウイルスを研究。著書に「DNAとの対話」など。

中村桂子
国立予防衛生研究所、三菱化成生命科学研究所を経て、同研究所名誉研究員、早稲田大学人間科学研究科教授。JT生命誌研究館副館長。著書に「あなたのなかのDNA」「自己創出する生命」、訳書に「DNAとの対話」など。

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