「阪神特殊製鋼」と「帝国製鉄」

「華麗なる一族」を見終わって、ふと気になって山陽特殊製鋼の株価のチャートを見てみると、
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先週、急騰してたんですね。
Yahoo!ファイナンスの関連ニュースに、「山陽特鋼が3日続伸、新日鉄グループ内の再編思惑向かうと(株式新聞)」とタイトルがありますので、これが直接の原因なんでしょうけど、その遠因は、「先週の華麗なる一族の予告編で阪神特殊製鋼の建設中の高炉が爆発するシーンがあったので、投資家に『再編必至』のマインドが働いたから」・・・というのは考えすぎでしょうか?
(ではまた。)

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プチ手術、完了

右腕下腕の皮膚の直下に直径1.5cmほどのシコリがあるのが数年前から気になっていたので、本日13時30分より、ちょっとした手術をして切除。
先生曰く、
「2cmくらい切るだけだから、たいした手術じゃないよ」
とのことだったので、注射程度の軽い気持ちで出かけていったら、看護婦さんに本格的な手術室に通され、(パンツ以外)洋服を脱いで手術着に着替えさせられて、ちとびっくり。ワイシャツのボタンをはずして脱くのを手伝ってもらうなんぞ、奥さんにもしてもらったことがない。
スタッフも医師2名看護婦2名の総勢4名。
手足をマジックテープで手術台に固定され、天井の丸い手術灯を見上げると、本郷 猛(古)がショッカーに改造されるときの気持ちはかくありなん、という感じでありました。
せいぜい直径5cmくらい塗ればよさそうなもんなのに、右腕全体をチャプチャプとイソジンで消毒されて、まるで血まみれのバラバラ死体の腕のようであります。
看護婦さんに化膿止めの点滴を打たれるは(点滴初体験)、これもよくテレビで見るような「ピッ、ピッ」とモニターに心拍のグラフが出る機械にはつながれるわで、本格度抜群。(実は、本格的手術室も生まれて初めて。)
ドラマでは、この「ピッ、ピッ」が「ピ−−」になって「ご臨終です」となるわけですが、どうかそうなりませんようにと思っていたところ、天に祈りが通じたのか十数分程度で無事生還。
先生が、小さなホルマリンのビンにぷっかり浮かんだ「もの」を見せてくれて、
「脂肪のかたまりだね。念のため病理に出しておくから。」
とのことでありました。
(まずはめでたし、めでたし。)

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ゆびとまの教訓

「株式会社ゆびとま」(http://www.yubitoma.or.jp/)から、「株式会社ゆびとま代表取締役の変更および一部報道について」というメールが今朝届きました。
ゆびとま(この指とまれ!)は、ご案内のとおり学校が登録されている同窓会サイトで、日本の元祖SNS的なサービスですが、ここ数日、元暴力団の人物が経営に関わっていたとの報道が流れており、

一部の報道や風評により、「この指とまれ!」に関する個人情報の漏洩や悪用の恐れ、暴力団との関わりなどが取り沙汰され、ご不安に思われていることと存じますが、そのような事実は一切ございませんことお知らせいたします。

とのご注意。
あらためてアクセスを見てみると、
graph_yubitoma.png
ということで、ここ2年ほどは、弊ブログとたいして変わらないアクセスしかなかった模様。300万人以上の登録者数があるとのことですが、私ごときの一ブログとアクセス数が変わらないようでは、もはやネットビジネスの体をなしていないのは明らかかと。(最近は、SNSの学校別コミュニティもありますし。)
私、2000年(about 50 dog-years ago)、ゆびとまさんの第三者割当増資に、投資するファンド側の人間として携ったんですが、少なくとも当時は暴力団の影がちらつくなんてことはなく、事業が人手に渡るまでは「純朴な長崎の方々がやっている」印象の会社でした。
ただし、外部の株主の議決権が3分の1を切る形で資金調達をされたため、(投資した企業やファンドは、それなりに見識が高いちゃんとしたところばかりだったにも関わらず)、そうした株主は法的にはまったく経営に関与できないし、株主の企業の社長やVCさん等がみなさん、「ゆびとまに、いろんな提案を持っていったんだけど、ことごとく拒絶されちゃって・・・」とボヤいていたことを記憶しています。
よく言えば、ゆびとまさんが「コミュニティ」を非常に大切にされていて、そのコミュニティを商売に利用するということに抵抗を感じてらっしゃったからとも理解してますが、一方で、ネットの世界で技術が大きく変貌し、資本の論理で周囲のビジネスが展開される中で、「他人の意見や力を利用しないこと」が、結局、会社が人の手に渡って「ろくでもないこと」になり、コミュニティのためにもならない、ということを示す好例になったのではないかと思います。
このゆびとまの例で、(今回初めてというより投資した直後から)、「コーポレート・ガバナンス」については深く考えさせられました。また、投資をするときには、(どんなにすごいポテンシャルがありそうでも)、外部の関与を受け付けない建付けになっている会社に投資すべきではないし、出資比率が高くない場合でも投資契約で役員派遣条項や各種の制約条項を入れておくことは重要だなあと、大きな教訓になった次第です。
(また、ゆびとまがある長崎県の法務局から、「組合というのは株式を保有できるんでしたっけ?」(苦笑)という問い合わせがあり、増資の登記のために投資事業組合の契約書のコピーまで提出させられるはめになった記憶もあります。組合契約書には、出資者や利益の分配までウチワな話が事細かに書かれてますので、このとき、組合契約書と出資者等の情報をアンバンドルする必要性を強く痛感した次第であります。ご参考URL。)
−−−
ということで、ネットで「NPO的なノリ」でサービスを運用されようとする方をときどき見かけるのですが、この意味で、(もちろん、コミュニティを大切にする気持ちは生かしつつも)、資本の論理を注入することや資本政策は非常に重要だと常々思ってます。
(「2ちゃんねる」なんかも、初期に「資本によるガバナンスのしくみ」が入っていれば、今と違った未来があったんじゃないかと常々考えている次第。)
ゆびとまには、高校や中学の友人数人と再会するきっかけも作ってもらったので、もちろん、まったく役に立たなかったというわけではありませんが、初期の頃から、
「あれは、『コミュニティ』ではないんですよ。コミュニティというのは、そこで『コミュニケーション』が発生するものなわけですけど、ゆびとまは、確かに登録者数は非常に多いけど、そこでのコミュニケーションは、ほとんど発生してないですよね?」
というようなことも言われており。(ということで、周囲の関係者は、なんとかアクセスが多くなるような方策をいろいろ提案されていたわけですが、結局、(技術的な能力の問題なのか、思想上の問題なのか)、これといった施策に打って出ることもなかった・・・。)
今回刷新された経営陣もその前の経営陣も、すでに私がまったく存じない方に入れ替わっちゃっていて、すでに何の義理もなく、また、ここ数年まったく ゆびとまのサイトにアクセスしていなかったこともあり、この機会に会員登録を削除させていただきました。<(_ _)>
前述のグラフを見ていただくと、ここ数日、アクセスが非常に多くなっていることがわかりますが、登録を削除する人がアクセスしてるからかも。
トップページを見ると、

現在の登録者総数[本日0時現在] 3,571,104人

とのことですが、この登録者数が明日どうなっているのか、注目であります。
(ではまた。)

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「小が大を呑む合併」とは何か(その2)

先々週の「華麗なる一族」(「大川先生」の回)を見逃した磯崎です。
先日の「『小が大を呑む合併』とは何か」には、多数のコメント、トラックバックをいただきまして、ありがとうございました。
中でも、あかはね@Fujisan.co.jpさんのコメントが力作かつ大変示唆的だったので、本文に引用させていただければと思います。

僕は三井信託銀行にいて、中央信託銀行との合併を経験しました。この合併は、当初はまさに小が大を飲み込む合併だったと思います。
三井信託銀行
+ 預金量大、店舗数多、顧客数多、従業員数多
− 不良債権大、規模の割に収益力低い、株価低い
中央信託銀行
+ 不良債権小、株価高い(流動性が低かった)
− 預金量小、店舗数少、顧客数少、従業員数少
両行の要素が上記のとおりだったとことを考えると、大とは一言で言うと「図体(ずうたい)がでかい」という感じでしょうか。
参考までに3つ面白い現象がありました。
一つは、図体がでかいの中の「従業員数多」の部分です。従業員全員が烏合の衆なら別ですが、そうでなければ一定比率優秀な人は存在します。つまり従業員数が多ければ、優秀な人も多いのです。その人たちが呑み込まれてたまるかと必死になった時、形勢が変わります。小が大を呑み込んだものの、体内で吸収できず、逆に体を乗っ取ろうとする現象が起きます。その結果、合併が破談になる場合もあれば、結局大が小を呑み込んだ形に実態上なる場合もあります。三井信託銀行と中央信託銀行の合併の場合は、後者になりました。これを考えると、小が大を呑み込む場合、小には、大の優秀な人材群を超える少数精鋭が必要なのかもしれません。

結局、普通にやってくと人数が多い方が勝っちゃう、ということですね。
旧長銀の とあるエラい方は、
「結局、銀行の合併は行員数が多い方が勝つに決まっているから、単に経営統合して生き残ろうなんてことを言うやつがいるけど、アホだ。長銀は投資銀行化していくしかない。」
というビジョンを、まだ長銀がかなり体力がある昔に掲げられてましたが、少人数の長銀の中でさらに投資銀行的なマインドの人は少数派で、多くの人は不動産を担保に貸付をするというような国内業務をやっていたので、結局このビジョン自体が立ち消えになって、普通の銀行と同じような「量の拡大」に走っちゃった結果がアレ、ということかと思います。
また、最近、「みずほフィナンシャルグループの中でも、旧興銀の人がかなり主要ポストで活躍しているらしい」というウワサを聞いたんですが、みずほさんの例というのは、もしかすると、「小が大を呑む合併(経営統合)」だったんでしょうか。
(外からでは、何がどうなってるのか、さっぱりわかりませんが。)

2つめは、「思考スタイル」です。大は業界上位にいるので、常に「当行はどうすべきか」という視点で考えるという思考になっています。一方、小は業界下位なので「上位にならう、上位の出方を伺う」という思考になっています。その結果、小が大を呑み込んだとしても、小が急に「当行はどうすべきか」と考えることができず、結果大のメンバーがリーダーシップを取るという現象が起きます。
これも上記同様少数精鋭、山椒は小粒でもピリリと辛いみたいな集団だと違うのかもしれません。

「志」とか「戦略構築力」みたいなところですかね。

3つめは「システム」です。合併の場合、システムは基本3パターン。三井信託銀行のシステムを使う、中央信託銀行のシステムを使う、全く新しいシステムを作るのいずれかです(両行のシステムをブリッジする場合もありますが、これは一時的なものですね)。合併後のシステムとして、いかに自行のシステムを採用させるか、実はこれは非常に重要です。なぜなら現在の銀行業務はシステムと密接な関係にあり、一からシステムを覚えなければいけない⇒当面は役に立てない⇒合併後のバタバタと、両行の軋轢で教えてもらえない⇒時間が経っても役に立てない⇒追いやられる、という結果が待っているからです。なので、合併後に小のメンバーが優位に立つためには、優れたシステムを持っていることも重要かもしれません。
ま、全ては結果学んだことで、当時は全く予測できませんでした。
一年後の4/1に合併すると発表され、合併ってどうやればいいのか全く分からず、「まじで、ドラえもんのどこでもドアで、一年後を見たい」と思ったのを覚えてます。

今まで、金融機関の統合で、「人事部が2つある」とか「たすきがけ人事」とかいう話を聞くにつけ、なんてアホくさいんでしょ、公開会社なんだから、まずは企業価値が上がるように行動すべきで、中の人間がどのポストに着くかなんてのは二の次では?と思っていたんですが、
結局、金融機関というのは「巨大な情報処理装置」で、やってることはどこも基本的には似たようなことなので、その統合というのは、「広い意味での情報処理方式として、どちらのものが生き残るか」、または「ミーム」のぶつかり合いであって、その「情報処理の遺伝子」の感染力が強い方が勝ちのこる。
勝つためには「数」も重要だが、感染力(情報処理)的な「強さ」も重要だし、何よりシステムという「スタンダード」を取れるかどうかで、ドミノ倒し的に勝負が決まってしまう(OSが二つ要らないのと同様、処理方式は一つでいい)、ということでしょうか。
(なるほど、なるほど。)
大変、勉強になりました。ありがとうございます。
(ではまた。)

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コマネチ大学数学科(スパゲッティ問題)

遅ればせながら、HDDビデオに録画されていたたけしのコマネチ大学数学科の先週放送分を見ました。
今回は、

長さ30cmのスパゲッティを無作為に3つに折った場合、その3本で三角形ができる確率はいくらか?

という問題。
竹内薫氏は、「マーチン・ガードナー」の方法というのを使ってらっしゃいましたが、そんなに難しく考えなくても;
3つに折れたスパゲッティの長さを、それぞれ、x、y、zとすると、
x+y+z=30 (ただし、x、y、z>0)
だから、3次元座標上で、下図の水色の平面上の点になり、
takeshi1.JPG
かつ、三角形ができるためには、各2辺の和は他の1辺より長い(x+y > z等)から、先の式を代入すると、
2x、2y、2z<30
で、つまり、それぞれの辺は15cm未満。(あたりまえですが。)
つまり、下図のオレンジ色の平面
takeshi2.JPG
の中に入る場合のみ三角形ができるから、一見して、確率は「1/4」のはず。
(いつになく簡単な問題だったので、コマ大フィールズ賞はいただけないかと思いますが・・・。)

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バブルと私

「バブルへGO!!」、見てまいりました。
概ね予告編を見てればわかる内容でありましたが、楽しめました。
「日本長期信用銀行」に1990年4月に入行された方は、必見かも。[謎])
映画を見たらバブル時代のことが懐かしく思い出されるかと思ったんですが、私がささやかながら六本木なんぞに出没していたのは、80年代初頭の学生時代の話。スクエアビルに入っている店の名前も、映画の舞台となる1990年とは若干違いましたね。
(よく考えたら、1990年ごろは毎日深夜まで仕事していたので、六本木なんぞに行くこともなかった・・・。orz)
大手町ビルと富士銀行本店の間に止まって富士銀行寮までの長距離の客を待ってるタクシーに乗り、「下井草まで(確か、深夜で3千数百円)」と告げたら、「何で乗んだよ・・・ったく。(チッ)」と舌打ちされたことは覚えてますが、万札をピラピラさせてタクシーを止めた記憶はありません。
今私が住んでいる家は、前の持ち主によるとバブル期には2億円以上してたらしい。(私が買ったときには、その5分の1強。)
(4000万円台の家は、もちろん4000万円台の価値しか無いわけですが)、新築で4000万円台の家を買うのと違って、なんだか1億5千万円くらい得した気分であります。(がはは。)
根が不精なので、私、バブルが崩壊しなかったら今だにサラリーマンとして人から与えられた仕事しかしていなかった気がしますし。
私 結構、バブル崩壊で得した(というか損しなかった)方かも知れません。
(ではまた。)

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キリスト教のベースがない日本は「法化社会」になれるのか?

今回号の「旬刊商事法務」の特集は、昨年12月に施行になった新TOB規制について。
相当TOBに詳しい弁護士さんに伺っても、「細かい部分はよーわからん」とおっしゃるほどややこしい規則になったわけですが、もともと3分の1を取得する際になぜ強制的にTOBをしなればならないのかという「思想」はなさそうなのに、規制を抜ける裏技を駆使するやつがいるので、とりあえずそれにパッチを当てるために規制を積み重ねているというんではないかというのが、率直な感想であります。
で、今回の改正で「抜け穴」が完全にふさがれたかというと、特集の論文にもあるとおり、まだ、グレーなゾーンやTOB規制を抜けるウラワザはいろいろ考えられるわけで、いたちごっこが終わったとは言えなさそう。
一方で、TOB規制が複雑になると、(個別の事例の判定は なんとかできても)、株式を購入しようとした場合の「ストラテジー」をイメージするのが非常に大変になります。(先に、ブロックである程度の株式を買っておいたほうがいいのか、最初からTOBするのか、第三者割当を受けるのか、市場で買い付けるのか、等。)
イメージがわきにくいと、マクロ経済的に見た取引量は減少するわけで、それは社会全体にとってみていいことなんでしょうか。
−−−
日本は、昔からルールはざっくりつくっておいて、優秀な人が全体を考えてそれを運用するというノリでやって来たかと思いますが、社会が複雑化して優秀な人でも全体を見回すことが困難になり、ルールを定めるから各自が勝手にやってちょうだいという「市場型社会」または「法化社会」に変わらざるを得なくなってきています。
しかし、国民性として根が真面目なので、「ルールを設定してそれを守ろう」という流れになってくると、ルールだけが(そもそもの「ルールの目的」を離れて)一人歩きするし、ルールに抵触する可能性がちょっとでもある場合に取引が行われなくなっちゃうし、ルールにちょっとでも形式的に抵触するやつがいると必要以上にそれをぶったたくことになっちゃう気がします。
(結果として、福井総裁の村上ファンド問題や、柳沢発言、不二家、過剰演出問題など、「確かに褒められた話じゃないが、そこまで叩かないとだめ?」という事件が頻発。)
ということで、(「欧米か!」と言われるかと思いますが)、ここで、「法化社会」の先輩である欧米社会の基盤となっているキリスト教(というか、イエスの言動)と、その「ルール」と「その運用」の考え方について考えてみたいと思います。
イエスの伝記と法令順守
新約聖書を読むと、イエスの伝記に相当する最初の四つの福音書のかなりの部分は、「ファリサイ派」や「律法学者」などの既存勢力が、イエスたちに、「おまえら、法令順守してないじゃん」というインネンをつけてくるのに対して、イエスが「重要なのは本質だ」と切り返す、というエピソードでなりたってます。
例えば。

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9.10〜9.13)

そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
人の子は安息日の主なのである。」(マタイ12.1〜12.8)

イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」(マタイ12.9〜12.12)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。(中略)しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10.25〜37)

など。(下線部筆者。以下同様。)
キリスト教は欧米を中心に世界人口のかなりのシェアを占めていますが、こうして見てみると、その思想のバックグラウンドの一つは、「法を形式面だけで論じたり、重箱の隅をつついたりしてはいけない。」ということでありましょう。福音書自体、既存の法令解釈の硬直化に異を唱える一人の男が、それによって恨みをかって、適正とは言えない裁判プロセスを経て十字架にかけられるというお話ですし、イエスが死をかけて示したことは「本質を考えた法令解釈をすべきだ」ということだと言っても過言ではないかと思います。
一方で、イエスは「法律は無視していい」とは言ってませんし、むしろまったくその逆で、

わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらのもっとも小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
(マタイ5.17〜5.19)

と、あくまで「コンプラ最重視」のスタンスを打ち出してます。
ということで、こうした宗教的素養が知識人の教養の基礎になっている社会では、「コンプライアンス」と「法令解釈の柔軟性」を両立する力が働く可能性が高いように思われます。
「ローエコ(法と経済学)」なども、「ルールがそもそも『本質』に即しているか?」ということを考えようという発想がないと出てこない概念かも知れません。
「柔軟性」をあまり強調すると、他人の国を攻撃したり、大統領府で不倫しても辞めなくていい、ということにもなるんじゃないかと思うので、バランスは大切かと思いますが、
「重箱の隅を突く形骸化した法令解釈は恥ずべきことだ」という観念が脳の片隅に引っかかってないと、形式的な法令解釈地獄にどこまでも落ちていく気がします。
また、キリスト教社会や経済が領土や範囲を広げていったのも、(よくも悪くも)その法令解釈の柔軟さに負うところが大きいのではないかと思います。
(ではまた。)

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マンダリンオリエンタル東京にお泊り

先週末に、めでたく結婚15周年を迎えたということもあり、昨晩は記念にマンダリンオリエンタル東京にお泊りをいたしておりました。
(ちなみに、エクストラベッド無料で、子供2人もいっしょであります。)
某カード経由で予約したところ、定価10万円超の広めの部屋にアップグレードしてくれた上、翌日午後4時までのレイト・チェックアウト、朝食・昼食(@3,500円×2人×2回分)もセットされ、結婚記念日ということでフロントのみなさんの寄せ書き+中国風デザートのルームサービスまでいただいて6万円台という、なんともリーズナブルなお値段でありました。
(一家4人で旅行でもしたら、交通費だけでこんなもんじゃすまないわけで。)
ちゃんとしたデジカメを持って行き忘れて携帯のカメラで撮ったので、部屋の内装はこんな↓
P105s.JPG
ピンボケの写真しか撮れませんでしたが、木製のおしゃれなブラインドを開けるとバスルームがベッドルームから丸見えになるというエッチな仕様になっておりまして、サービスのレベルも含めて、さすがマンダリン。予想にたがわず、なかなかようござんした。
この部屋の最大のポイントは、窓から日銀(どの)を足元に見下ろせる点でありましょう。
P104s.JPG
日本の金融を支配したような気分を味わってみたい金融関係者のみなさんにはオススメかも知れません。
(ご参考まで。)

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「小が大を呑む合併」とは何か

「華麗なる一族」の、万俵 大介 (北大路 欣也氏)になったつもりで「小が大を呑む合併・・・」とつぶやくのが、最近の私のひそかなマイブームなのですが、よく考えてみると、「小が大を呑む合併」というのは、なんでしょ?
「小が大を呑む買収」であれば、親子関係があるのでわかりやすいですが、「合併」というのは両社が包括的に一体になるので、そもそも「呑む」というイメージではないはず。
また、「どちらが存続会社になるか」というのも、会社法的・税務的・会計的にテクニカルなお話であって、「呑む・呑まれる」といった力関係とは本来無関係なお話。
ただし、昭和40年代の都銀が、「欠損金があるので逆さ合併」、とか、「資産を時価評価するために『大』のほうが消滅会社に」、というようなこともなかったでしょうから、素直に、「力があるほうが存続会社」というノリだったのでしょうか。
「合併比率を『小』の方に有利に」ということも考えたのですが、当時は、「株価やDCFでのvaluationをベースに合併比率を算定」というノリでもなかったでしょうから・・・いったい、どうやって合併比率を決めていたのか・・・。
当時はおそらくどこも50円額面だったので、(純資産額とかもあまり考えずに)「なんとなく1:1」とか?
金利も規制金利であり、資金需要も強いので、「預金の量∝資産の量∝収益力」なので、単純に預金量で決定、だったんでしょうか?
きっと、(日本の銀行の文化的に考えれば)、「どちらが頭取になるか」という、シンプルなお話であって、会社法的・財務的なお話ではないんでしょうね。
そういえば、小学校の時、太陽銀行の寮に友達がいてよく遊びに行っていたのですが、途中から寮の看板が「太陽神戸銀行」に架け替えられたことを思い出す今日この頃。
(ではまた。)

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朝から豆乳鍋

昨年末、電車の中吊り広告の「懸念される滝川クリステルの『左傾化』」(山本一郎)というタイトルを見て、ひさびさに週刊文春を購入して読んだところ、ナンシー関氏の死後、これほど人生になんの役にも立たなくてバカバカしい文章にはついぞ出会わなかったなあという強い感慨にとらわれ、うちの奥さんにも週刊文春を渡してその感慨を分かち合ったのですが、それはさておき。
その号に載っていた、安野モヨコ氏の連載「くいいじ」を奥さんが切り抜いて取っていて、今朝は、その「豆乳湯豆腐」(←昨晩の残り)をいただきました。
モヨコ氏曰く;
「少量の水で昆布のだしを取り 豆腐ができるくらい濃厚な豆乳を大量に投入!!! 具は長ネギ木綿豆腐×2のみ!!」
「大好物です(涙)」
「昨年、京都の友人に教わってから しばらくは毎日コレを食べていた」
「塩と黒七味で、醤油と黒七味でいただく。
(黒七味)←影の主役 コレなくしては成立しない。」
とのこと。
しかし、奥さんが数軒、デパートや高級スーパーを探したが「黒七味は不定期にしか入ってこない」とのことで見当たらない。
しかたがないので、ネットで注文するとともに、とりあえず良く似た(と思われる)山椒ベースの「黒薬味」を成城石井で購入して、沖縄の塩でいただいてみました。
・・・確かにこれはうまい!
ヘルシーな上に、毎日食っても飽きもこなさそうですし。
豆腐と山椒というのは、よく考えたら四川風麻婆豆腐でも実証済みの最強タッグですな。
朝から体もぽくぽくであります。
(ではまた。)

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