「リスクのモノサシ」と内部統制

本日は、「企業として、どこまでのレベルで内部統制を構築しておけば世間様から許してもらえるのか」というお話。
−−−
昨日の、日本テレビの「世界一受けたい授業」の第一時限目、「危険の心理学−人はなぜ情報に惑わされるのか?」というのは、時節柄、非常に興味深い内容でした。
講師は、こちらの本;
risk_no_monosashi.JPG
リスクのモノサシ—安全・安心生活はありうるか (単行本)
中谷内 一也 (著)

を書かれた方のようです。
まだ読んでませんが、早速Amazonで発注してみました。
番組では、「日本でサメに襲われて死ぬ人は年間何人くらいいるか?」という問題を出題。
答えは、「レジャーに限れば10年に1人程度。職業ダイバー等を含めても3年に1人程度」。
映画「ジョーズ」などの印象が強く残っているので、年間平均3人くらいは死んでいるような気がしますが、サメに食われて死ぬ確率というのは、限りなく低い・・・というわけです。
また、番組では、下のような表を掲げてました。
risk_hyo.JPG
番組によると、10万人あたりの食中毒による年間死亡者数は、

1960年0.27
1980年0.017
2000年0.004

・・・と、年々下がってきており、2000年では、なんと1960年の約70分の1になってます。
番組では、「救命医療が発達したため」としてましたが、当然、食品衛生に対する認識が巷に広がったことや、食品メーカーの衛生管理態勢が高まったことも大きいでしょう。
(食中毒は、死なないまでも大きな問題にはなるわけですが、それはさておき。)
発生確率と「影響の大きさ」
番組は、「代表性バイアス」(平たく言うと、(マスコミ等に乗せられた)さわぎすぎ)について疑問を投げかけるものでしたが、では、企業側としては「発生確率」が低ければリスクを管理しなくていいのか?というと、そうではないですね。
リスクの大きさの「期待値」は、

「発生確率」×「発生した場合の影響のデカさ」

になりますので、いくら発生確率が低くても、影響度が大きいものについては管理しないといけない。
例えば。
食中毒での死亡者は、年間10万人あたり0.004人と「落雷程度」の確率なので、不二家の報道があったからといって、「他人は信じられないので外ではもう食べない」とするのは、消費者の観点からは「騒ぎすぎ」ではないかと思います。
(前述のとおり、1960年代に比べれば、平均レベルは70倍もよくなっているはずで、文字通り「死ぬわけじゃない」。)
他方、食品メーカーの立場からは、「不二家のようなこと」をやってるのが外にわかったら、企業としては存続の危機に直面するのは確実。清潔さについて、たゆまぬ改善を行わないといけないのは食品メーカーとして当然のことであります。
不二家のような老舗だと、逆に、「昔に比べたら70倍もよくなってるのに」というマインドがどこかにあったかも知れませんね。
ちなみにこれ、消費者金融業界とか証券業界などにも言えそう。
消費者金融業の昔を知っている人ほど、「年利100%を超えてた時代に比べれば・・・」と思うでしょうし。
以前、大手証券会社の重役クラスの方が、「昔は、そりゃあ悪いこともたくさんやりましたわ。がはははは。」と笑ってるのを聞いて、当時のコンプラレベルを想像すると怖くてとても「どんな悪いことだったんですか?」とは聞けなかった。(笑)
ま、悪いお手本を参考にすることはないですが。
ただ、先日書かせていただいたように、個社でなく、マクロ的な経済の観点からは、「潔癖すぎる社会」は、メリットだけでなくデメリットもある気も。
航空機の例
ちなみに、先日見た、NHKスペシャルの「危機と闘う・テクノクライシス 第3回−しのびよる破壊 航空機エンジン」
http://www.nhk.or.jp/special/onair/060711.html
も、非常におもしろかった。
航空機エンジンのガスタービンのブレードは、戦略部品なのですべてアメリカで生産しており、1本取り替えると非常に高額(確か1本70万円?くらいのブレードを、エンジン一基あたり何十本も使っている)。
日本では、このブレードが破壊されてエンジンが火を噴いたら「大問題」で、マスコミでボコボコにされることは間違いないですが、アメリカの国家運輸安全委員会は、「エンジンが火を噴いたら、空港に引き返せばいい。」という考え方。
ゴルゴ13的視点・落合信彦的視点からすると、「米国の戦略産業である航空機産業を保護するために、あえて問題を隠蔽している」と取れないことはないですが、上記のように、飛行機事故で死ぬ確率は非常に低いし、「1基でも飛べるのにエンジンが3基も4基もつけて大きな安全マージンを取っているんだから、1基くらいぶっこわれても問題はないんだ」というのは、それはそれで科学的な気がします。
BSE問題の例
BSE問題もそうかも知れませんね。
仮に、科学的にはアメリカ程度の管理をしていればBSEで死ぬ可能性は限りなく低かったとしても、日本人は「BSEのプリオンが混ざる確率がゼロです」と言われないと納得できない。結果として牛肉のコストが上がったり牛丼が食えなくても、そちらのほうを選択するんでしょうね。
実際、さほど潔癖症でない私も、「BSEが混ざってるかも」とか「期限切れの牛乳を使っています」と言われたら、そこの製品は食う気がしませんし。
ちなみに、先週、私がほうれん草のバター炒めを作ったところ、(かなりちゃんと洗ったんですが)、中によーく炒まったイモムシ君が1匹昇天されてまして。(死ぬわけじゃないと思ったので、イモムシ君だけどけて食っちゃいましたが。)
不二家事件風に表記すると「蛾の幼虫が混入」ということになるんでしょうし、これが、ファミレスで出てきたら、一応店員に、「ちょっと、これ・・・」と言うかも知れませんが、不思議なもので、ほうれん草を売った店にクレームをつける気にはならない。
「出自」(不都合が発生した経緯やメカニズム)が明らかなら、あまり騒ぐ気にならないということでしょうか。
(追記:コメント等でご指摘いただきましたが、「BSD」と書いてましたが、「BSE」の誤りでした。訂正させていただきました。)
トヨタのカンバン方式と「発生確率」
かれこれ20年以上前に、はじめてトヨタ(さん)のカンバン方式のことを知ったときに、率直な感想として、「数万個の部品の中に1つだけ不良品があったというのは、発生確率としては極めて小さいのに、なぜ製造ラインをすべて止めて検証するんだろう?”科学的”に考えてムダではないか?」と思ったのですが、重要なのは発生確率ではなくて、不具合が発生する「しくみ」を是正することなんでしょうね。
また、落雷で死ぬ確率が低いからといって、近くで雷がゴロゴロ言ってるのに、ゴルフを続行はしないですよね?「コントロールされているから低くなっている」面もあるので、「発生確率が低いからコントロールしなくていい」ということにはならない。
経済学的に正しい政府の対応(規制のあり方)は?
さて、以上のような例で、日本の政府の役割としては、「騒ぎすぎだ」と沈静化を求めるのがいいのか、あくまで国民の「ニーズ」をベースに「問題ゼロ」を目指すべきなのか。
自動車のような技術的な改良の余地がいくらでもある(上記の表でも死亡リスクのかなり高い)産業についてはカンバン方式的な果てしなき不良品ゼロ化を志向したほうがいいのか。
航空機や食品など、リスクが十分に小さくなっているものについては「騒ぎすぎ」を科学的に指摘する・・・など、産業別に対応を変えるのがいいのか?
いずれにせよ、日本の政府が「騒ぎすぎ」を指摘するということは(政治の力学を考えてみると)ありえない気がしますので考えてもムダな気もしますが、企業の内部統制のレベルの決定に関与している立場としては、非常に興味ある命題であります。
先日、セミナーで、「コンプライアンスについては、経営判断の原則といった範疇に入るしろものではなくて、どんな軽微な法令違反も認めないということにしないといけない」というような弁護士さんの話を聞いてこられた方がいらっしゃるんですが、精神論としてはともかく、ミスをゼロにするためには理論的には内部統制のコストを無限大にしないといけない・・・。実際に内部統制のレベルを取締役会で決議する場合に利益の何割ものコストを追加でかけるというのは無理なので、結局、企業の役員が実質的に無過失責任を負うということになったりしないでしょうか?(役員のなり手がいなくなったりしないかしらん。)
「エンジンが火を噴いたら引き返せばいい」という感性では、とてもトヨタ車のような品質の製品は作れない気もします。
「経営判断の原則」というのは、「ミスがあってもいいじゃないか。人間だもの。」ということで「科学的」な気がする反面、「そういう(甘い)感性」の範疇のお話だという気もします。
「日本人なら(無過失責任で)切腹」というくらいの気合でやったほうがうまくいく場合もある気がしますが、一方で、それでホントに現代的な経営ができるのかしらん?という気も。
財務報告の範囲に絞っているため、「重要性の原則」等、誤差のマージンが存在する日本版SOX法については、私はあまり心配してないんですが、法令や規程へのコンプライアンスに必要な日本での内部統制レベルというのを考えだすと、夜も眠れません。
(ではまた。)

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電通(さん)とWeb2.0時代

汐留の電通本社の下(地階)にアド・ミュージアム東京というのがあって、そこのミュージアムショップで電通4代目社長 吉田秀雄氏の有名な「鬼十則」のレプリカを売ってます。
http://www.admt.jp/
この「鬼十則」。電通さんに限らず、上場企業や大企業など、世の中に影響を与えるような大きな仕事をしてらっしゃる会社の行動規範として、また、志あるベンチャー企業の行動規範として、今でも非常にmake senseな10カ条だなあ思って拝見してました。
最近、いろんな大企業の方から、「ウチもweb2.0的な事業を考えてるんですが」というご相談をいただくことがあるのですが、「そもそも、おたくの(大企業病的な)社風では難しいんじゃないですか」と申し上げたくなることがしばしばあり、(しかし、そこは私も大人なのであまり直截な表現はグッとこらえて)、もうちょっと回りくどいご説明を差し上げるんですが、
そんなweb2.0時代においても、はたしてこの鬼十則は通用するのかどうか。
ちょっと考察してみました。
1.仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2.仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3.大きな仕事と取り組め。小さな仕事はおのれを小さくする。
4.難しい仕事を狙え。そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5.取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6.周囲を引きずり回せ。引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7.計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8.自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9.頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10.摩擦を怖れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと君は卑屈未練になる。
 
1.仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
これは、このIT・ウェブ時代に、ますます当てはまることではないかと思います。
「デファクト・スタンダード」とか「ネットワーク外部性」が、従来型産業より強く働く世界なので、「他の人から言われてやってるようじゃダメ」という度合いは、より強まっているはずであります。
2.仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
これも同様。
ポジティブ・フィードバックが強く働く世界では、先行者メリットが大きい場合も多々ありますが、電通さんは大昔から、広告やブランディングといった「情報」の性質を持つ仕事の領域で活動されていたので、吉田氏もそういう思いが強かったのではないかと妄想。
ただ、ことウェブに関して言うと、技術が急速に変化している上、機器やサービスのコストが幾何級数的に低減し、一方でユーザー数が急速に伸びるので、この「ポジティブ・フィードバック」がうまく働くタイミングというのは、一定の「窓」があると思うんですよね。(SNSとかソーシャルブックマークとかいったビジネスモデルは、かなり以前[2000年のネットバブルのころ]からあったが、それはそれで早すぎた。)
つまり、これを「早ければ早いほどいい」と解釈するのは、少なくともウェブ時代には必ずしも当てはまらない。もちろん、「受け身でやるものではない」というところは、引き続き当てはまっているのかな、と。
また、この第1項と第2項をわざわざ吉田氏が分けた意味がどこにあるのか、いまひとつよく理解してないのですが、引き続き熟考させていただきたいと思います。
3.大きな仕事と取り組め。小さな仕事はおのれを小さくする。
これはそのとおりでしょうね。
資本の原理が浸透してきた今、社員みんなが全社的(連結グループ的)な観点から重要性がある「大きな」ことを考えるという風土を形成することは、ますます大切になっているはずです。
ただし、気をつける必要があると思われるのが、「大きい」「小さい」を、何の尺度で判断するか。
今や、時価総額1500億ドルにもなったGoogleのやってることを「小さな仕事」だと言う人は誰もいないと思うのですが、Googleが検索連動型広告といった概念を最初に考えたころに、「ワンクリック10円くらいで、広告主からお金をとって媒体に掲載するようなことを考えてまして・・・」という話を聞いて「小さな仕事」と思わない人が世の中でどのくらいいたのか。(ほとんどいなかったのではないか。)
特にweb2.0的な(「ロングテール」っぽい)話は、「小さな仕事」に見えやすいので、「評価尺度に注意」であります。
4.難しい仕事を狙え。そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
今までもそうですが、特に、情報がすばやく伝わる世界になってくると、「易しい仕事」というのは、参入障壁を築けないから超過利潤が発生しない。
なんらかの「難しさ」「複雑さ」が存在することは「(サステイナブルな)成功」の必須条件になってきているはずであります。
一方で、「永遠に難しいまま」が予想される仕事だと、スケール感が出ても収益性が改善していかないので、「難しけりゃいい」ということを意図されたものでもないかと思います。
「成し遂げる」というのは、「一山超えた」という語感がありますが、「難しさ」で参入障壁や競争優位性を確保して、一定段階まで育つと後はポジティブ・フィードバックが働くようなのが事業としてオイシソウじゃないかと思います。(が、そういう楽なことを考えちゃダメでしょうか。)
5.取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
これも同様。
web2.0っぽい事業は、「しきい値」を超えると楽になるわけですが、それまでは逆に悪循環が働くので、「簡単にあきらめちゃダメ度合い」は、ますます高まっているということかと思います。
6.周囲を引きずり回せ。引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
これも、第1項、第2項と同じく、web2.0時代にはますます当てはまってくると理解させていただいてます。
「自分が『スタンダード』になる大切さ」、ですね。
7.計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
この「長期の計画」というところが、web2.0的にはかなり違和感があるところです。
「consumer generated」なメディアだと、ドライバーは「consumer」なので、既存の「計画」という概念には非常になじみにくい。つまり、「計画経済」から「市場経済」に変わる、というのと同じくらいパラダイムが転換しているお話なので。
「CGM(=consumer generated media)」とは、「(計画経済でなく)市場経済のメディア」だ、とも申せましょう。
計画性がまったくなくていい、という話ではなく、ビジョンを持つことは重要ですが、「計画」という言葉に対するイメージは、既存型産業とは大きく違うのかな、と。
「完全な絵を描いて、すべてをそれに当てはめていく」、というよりは、ある程度抽象的な成功像をイメージしつつ、状況の変化に応じて臨機応変に対応を変えていけるような、より「シナリオ的」「臨機応変的」な「計画」だったりするかも知れません。
旧来型の「計画」がないとプロジェクトが先に進められない企業では、web2.0的な活動はできないわけです。
8.自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
このへん、判断の尺度が一筋縄でいかない広告というものをプレゼンして売ってきた電通さんにおいては非常に重要な行動規範だったんではないかと推測します。
Web2.0時代においても、「consumer generated」なものを成功させるためには、「あまり深く考えずに『これがいいじゃん』と思っていただく」ための「信用(≒思考停止)」の形成が極めて重要なわけですが、他人から信用してもらうためには、まず自分で自分の話が信用できないと、というのはあたりまえのお話であります。
「ブランド形成」の基礎のお話かと。
9.頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
これも、「consumer generated」な世界では、ますます難しくなり、重要になるお話であります。
何が「祭り(フィードバック現象)」になるかわからないので、隙を許さない度合いは、ますます高まっているのではないかと。
10.摩擦を怖れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと君は卑屈未練になる。
これは、(特に日本の)Web2.0的には非常に注意が必要な条項ですね。
というのも、成功しているweb2.0的サービスというのは、結果として、既存のサービスとバッティングする部分が非常に少なく、あまり摩擦を意識しないで済む発展をしているものが多いので。
そりゃそうですよね。ネットワーク外部性的なポジティブ・フィードバックが働く世界においては、フリクションがあるとフィードバックが止まったり効率が悪くなったりするので、「ブルーオーシャン」的なものでないと生き残りにくいわけであります。
(孫子的に言うと「戦わずして勝つ」ということになりますが。)
また、日本の産業の中でも最も「摩擦」を考えなければならないのが、今やメディア系の産業になっておりまして。
市場で売ってるにも関わらず、メディアの株に手を出そうとする者は(因果関係があるのかどうかよく存じませんが、めぐりめぐって結局)逮捕されちゃうとか、著作権法があってキャッシュもだめだから検索エンジンのサーバが日本には置けないとか。
eBayにしてもGoogleにしてもYouTubeにしても、摩擦を恐れたか?と言うとおそらく恐れなかったし、卑屈でもなかったはず。そういう意味では当たっているのですが、たぶん、日本でGoogleやYouTubeと同じことをやって大成功した会社があったとしたら、今頃とっくに、東京地検特捜部のみなさんに段ボール箱を運び出されているんじゃないかと妄想する次第であります。
ということで、(もちろん、あらゆる「摩擦」を怖れずにすむ、チャレンジャーが卑屈にならなくて済む社会になっていただきたいのは当然でありますが)、(特に日本で)web2.0っぽい事業を考える場合には、これを「明らかに(大きな)摩擦が予想されるにも関わらず、それを気にするな」という意味と解するのはあまりオススメできない。
当然、どんなビジネスでも摩擦ゼロということはないですが。
戦略的には「摩擦を怖れずに済む領域」を選択し、その中での行動規範として「摩擦を怖れずに、素直に伸びてゆけ」というくらいの意味に解釈する必要があるんではないかと思いますが。
吉田秀雄様。
こういった考え方は卑屈でしょうか。
また、今の日本の社会をどうご覧になっているんでしょうか。
(ではまた。)

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犯罪・冤罪を発生させないための鉄道会社の人道的責任(なぜカメラに投資しないのか?)

周防正行監督の「それでもボクはやってない」を見て、警察、検察、裁判所のあり方に大きな疑問を持った人も多いかと思います。しかし、そもそも「全知全能でない神ならぬ人間が人を裁く」わけで、裁判官に「必ず真実を見抜いてくれる」と期待するのは、人間の能力上、無理がある。
構造的な「期待ギャップ」なわけです。
警察や検察の方々も、基本的に真面目に仕事をしてらっしゃるはずですが、「誰の目にも明らかな証拠」が無いものについて判断ミスが出るのは、ある意味仕方ない面があります。
−−−
しかし、(冤罪全般はともかく)、こと痴漢冤罪の問題についてはテクニカルにきれいに解決できるはずです。
鉄道会社が がんばれば。
 
「ムーアの法則的」に安くなっているカメラ監視システム
携帯にいまや必ずカメラがついているように、カメラはすでに1個数百円の原価になってきています。
train.JPG
たとえば4ドアの車両で上図のようにカメラを天井に配置しても十数個、原価は1万円ちょっとでしょう。
これで死角があるというなら、あと何個か増やしても、タダみたいなもんです。
コントローラーとして1車両の屋根裏に1台パソコンを設置するとしても、今やパソコンも1台5万円を切ってますから、大量に発注すれば、システムの設計費を入れても、1車両あたりの投資額が50万円を越えるとは思えない
例えば山手線は内回り外回り計で52編成あるとのことですが、
  52編成×11両×30万円
としても、、山手線全部でたった2億円弱です。
以前書いた、本人が無罪を主張して裁判していた弁護士さんに先日、「その後どうなりました?」とたずねたところ、
「結局、1年数ヶ月の判決が出て、現在服役中。すごく真面目なサラリーマンで、両手に荷物を持っていて指しか動かせないにもかかわらず、結局、『指だけ動かせれば触れるはずだ』ということになってしまった・・・。」
とのこと。
カメラがあれば、証拠が残る(少なくとも、もぞもぞしてるぞ、とか、周りにどんな人がいたとか、証人を探せるとか、格段にエビデンスが具体的になるはず)だけでなく、そもそも痴漢するやつがいなくなるはず。(私の住んでいるところに空き巣が立て続けに数件入ったので、自治会で相談してカメラを設置したところ、ぴたっと空き巣の被害は止まりました。)
おまけに、痴漢だけでなく、置き引きや暴力事件など、他の犯罪の証拠や抑止効果にもなるはずです。
ROIはめちゃくちゃ大きいはず
新型車両の投入や既存車両の改装は、一気に行わなくても、
「今後、カメラで監視することによって、社内の安全を確保していく」
とプレスリリースで宣言して何台かカメラ付き車両を投入するとともに、ホントにカメラをつける改修はまだ済んでない車両についても天井にケータイのカメラ風の小さな黒い丸のシールを貼っておくだけで、非常に大きな抑止効果があるはずです。
例えば、JR東日本さんを例に挙げさせていただくと、昨年度の投資額は4000億円弱もあるわけです。その0.1%でも投資したら、実際に痴漢・スリ・暴力なども格段に減るはずだし、無実の罪で服役したり、やってもいないのに(裁判で何ヶ月もかかったら仕事を失う可能性もあるので)罪を認める人を生み出す可能性も激減するはずなのに、なぜ、そうした「通勤電車を安心できるものにする」投資をしていただけないのでしょうか?
大変不思議であります。

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磯崎哲也とニュートリノ

koshiba.jpg
404 Blog Not Found「あるある大事典とプリンキピアの違いって何だ?

例えばカミオカンデ。小柴先生にノーベル賞をもたらしたこの観測装置は、元々ニュートリノを見るためではなく、陽子崩壊を見るためのものだった。

ちなみに、(記事にまったくなんの関係もございませんで恐縮ですが)、私が育った杉並の実家が、小柴先生のご自宅まで”息を止めたままたどり着けるくらい近い”、というのが、私のプチ自慢であります。

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サーバ障害復旧

本日、16時から18時くらいまでにかけて、ホスト先の通信機器の障害で弊事務所のホームページにアクセスできませんでした。アクセスしていただいた方、どうもすみません。
(期限を3ヶ月過ぎた牛乳を飲むと、腹は壊さないけどサーバが壊れるのかも知れません。)

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期限切れ3ヵ月後の牛乳を飲んだらどうなるか?

確か事務所の冷蔵庫の牛乳が切れていたと思ってコンビニで牛乳を買って帰ったところ・・・・・・あった。
切れていたのは牛乳ではなくて、賞味期限だった。(しかも、買ってすぐ開封済。)
gyunyu.png
昨年11月6日に賞味期限切れということは、3ヶ月弱経っているわけで。「のだめ」状態というか「風の谷のナウシカ」状態というか「男おいどん」状態というか、とにかく牛乳パックの中はすんごいことになっているんじゃないかと思って、おそるおそる「あけぐち」を開けてみると・・・・・・ん?カビ等は生えてない模様。
次に、恐る恐る鼻を近づけて匂いをかいでみたが・・・・・・ん?これも、別にツンと匂いがするわけでもない。
ということで、コップに入れて恐る恐る一口飲んでみたが、特に味がヘンとか酸っぱいとかいうこともない。
というか、うまい。(ごく普通の牛乳の味。)
不思議だ・・・。
この牛乳メーカー某社の「ナチュラルテイスト製法」がすごいのか、それともNationalの冷蔵庫がすごいのか。家で使ってなかったSHARPのプラズマクラスター空気清浄機というのを持ってきて使っているので、事務所の中のカビや菌がすべて死滅して(牛乳パック内に入り込まなかった)のかも知れない。
とにかく、すごいですね、日本の技術。
というわけで残っていた250cc、全部おいしくいただいちゃいました。
30分経つけど、体調にも変化なし。
(なんかあったら、またお知らせします。)

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本日のペコちゃん

本日、家族で一風堂にラーメンを食いにいったんですが、いつもはレジで支払いをするときに子供にキャンディーをくれるのに本日はくれないのでどうしたんだろうと思ってよく考えてみたら、いつもくれてるのは不二家のペロペロキャンディーでした。
(子供はガックリであります。)
さて、渡辺千賀さんが「不二家の期限切れ牛乳利用問題」で曰く

「日本の基準が厳しすぎ、求める清潔水準が高すぎる」
という意見もあるが、それはそれでいいんじゃないか、と思う。厳しい環境の中からこそ、非常に優れたモノが誕生することは多々ある。日本の基準が厳しいのは、日本の食品メーカーの競争力を強めこそすれ、弱めてはいないだろう。

メーカー側が自主的に厳しい生産管理の基準を設けるのはメーカーの競争力になると思います。渡辺さんが例としてあげているマクドナルドが、自主的に「品質」を定義してそれを守っているのは大変よろしいかと思います。
しかし、たとえば「5日を過ぎたら(品質のいかんにかかわらず)消費期限切れ」という規定が存在し、これを1秒でも過ぎたら会社が倒産の危機に直面するとしたら、メーカーは5日を絶対越さない許容誤差マージンをとった在庫管理をしないといけない。
(この期限が「ノックアウト条件」になって企業価値を激減させる「オプション」がつくわけです。)
「5日」というのは、もともと牛乳の品質が99.9何%かの確率で絶対悪くならないといった、マージンをかなりとった期間なんでしょうから(実際、うちの牛乳は期限を2週間過ぎても、すっぱかったりへんな味がするどころか、非常においしくいただいてます。)、2重に許容誤差をとらないといけないのは、マクロ的に見てムダだなあ、と。
また、そういった過度に厳しい制約条件がかかっている場合、企業は、その規制をクリアすることには躍起になるでしょうけど、自立的に品質を定義して生産管理を行う能力は損なわれていくと思います。(たぶん。)
マクドナルドは、「国の基準や国民の要求が厳しかったから」、サイエンスと呼べるほどの清潔さを身につけたのかと言うと、(渡辺さんのブログを過去から読んできた知識から考えると)、まったくそんなことはなさそうだ、(つまり、国や清潔好きな国民から言われて管理基準を強化したのではなく、むしろ、放っておくとあまり清潔にしない人も従業員として使わないといけないから、システム的に管理を強化せざるをえなかったのでは?)、という感想であります。
人間でもそうですが、「自分から基準を作り出すやつ」と「人から基準を押し付けられるやつ」では、前者のほうが圧倒的に生産性が高いのが常である気がします。
(ではまた。)

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「それでもボクはやってない」を見てきた

周防正行監督の「それでもボクはやってない
soreboku.jpg
を、公開初日に見てきました。
見終わった感想としては、「見に行くのはあまりおススメできない」。
理由は、「日本に住んでいる人なら絶対見るべき映画」だから。
−−−
公開初日にもかかわらず(また、場所が繁華街ではないシネコンだったこともあるのか)、劇場の3分の2は空席という状況。
だって、そりゃそうでしょう。痴漢の裁判シーンがとうとうと続く映画というのを、いったい誰と見に行けばいいのか。彼女とデートで行くというのもなんですし、夫婦でというのも、ねえ。
奥さんが仕事で忙しかったし子供を連れて行くのもなにかと思ったので私は一人で見に行ったんですが、痴漢の裁判の映画を一人で見に行くというのもちょっとナニでして。
「『それでもボクはやってない』大人お一人様でよろしいですね?」というチケット売り場のおねえさんの声がシネコンのロビーにこだまするのも、「わわわ、もうちょっと小さな声でお願いします」という感じであります。
以前、このブログの「痴漢容疑リスク」というエントリで、

「痴漢容疑リスク」は(大げさでなく)現代社会における最大のリスクの一つになっている、ということではないかと思います。

と書かせていただいたところ、小飼弾さんからは、

磯崎さんとは思えぬ不見識である。

池田信夫さんからは、

これは典型的な「代表性バイアス」です。日ごろから冷静なリスク評価の必要性を説いている磯崎さんが、こういうバイアスを強めるのはいかがなものでしょうか。

とのコメントをいただいて、(ちょっとくやしいので)、次の「『痴漢容疑リスク』とリスクマネジメント」というエントリでは、リスクマネジメントの観点から考察を試みてみたりもしましたが、
思えばそのときの私の説明はヘタクソで、この「巨大なリスク感」を今ひとつうまく説明できなかったし、数値的な「リスク」の話でもなかったかもしれないのですが、周防監督は、この痴漢裁判が、日本の三権のひとつである司法がはらむ大きな問題の一つの表れである、という形に見事に整理して作品にされてます。
つまり、最近批判の多い「国策捜査」と同じ構造的問題を、表裏一体の「司法」の観点から描いた作品、とも言えます。
−−−
日本は民主主義の国で、首相や政府に対しても行政に対しても、そして「第4の権力」であるメディアに対しても、国民は非常に厳しく批判的な目を向けており、実際に容赦ない批判が浴びせられているわけです。
しかし、よく考えてみると、三権の一つである司法の問題については、ほとんど話題になることすらない。
それは、「司法にタテツくと怖い」といった恐怖感といったものからでは(おそらく)まったくなくて、司法の実態があまりに専門的で、話題にするにはあまりにつまらなく、お笑い用語でいうところの「からみづらい」存在だからでしょう。
つまり、司法のはらむ問題というものは、テレビや新聞といったマスメディアでは非常に取り上げづらかったし、「ジュリスト」などの雑誌や専門書でも「無罪判決を出すと裁判官の出世にひびく」といったことは書きづらい(また、おそらく専門家の間では「あたりまえ」の話として共有されているので書くまでも無い)ことなはず。
ましてや、前述のとおり、映画として興行ベースに乗るとはとても思えないテーマであります。
それがなぜ、「踊る大捜査線」等で大ヒットを飛ばしており、Wikipediaでも、「日本で数少ない、良い意味で映画を『ビジネス』として見ている人物」と書かれているフジテレビの亀山千広氏の製作で公開されたのか。
うがった(または素直な)見方で考えれば、
「『踊る大捜査線』シリーズでだいぶ儲けたから、今度は亀チャンの好きなものやらせてあげようよ」
的な社内力学で、本来、興行的には取り上げるべきではなかった作品が取り上げられてしまったとも考えられます。
しかし、(周防監督は、3年前から綿密な取材を重ねてこられたということでそういった意図は無いと思いますが)、素直な(またはうがった)見方で考えれば、これは、ニッポン放送=ライブドアの攻防で自社に対する新株予約権の発行が差し止められたフジテレビ(および亀山氏)自身が体験した
「あれっ?裁判官って真実を見抜いてくれる人じゃなかったの?」
という意外感、恐怖感、絶望感または喪失感が背後にあって、フジテレビが、「われわれ以外にこれを送り出せる者はいない」という使命感から「公器」として世に問うた作品なのかも知れません。
作品は、裁判の「実態」を(あまりに)リアルに描いている(だけな)ので、法律関係の方々にとっては日頃見聞きしたり体験したりすることと同じで面白くないでしょうし、善良な一般市民にとっては、「刑事裁判」というのは まったく異世界のこと(数値的なリスクとしては「交通事故よりも確率の低い」もの)なので、これも興味がわくことなのかどうか。
そういえば、亀山氏は「踊る大捜査線」シリーズで、「取調べでカツ丼が出てきたり、現場の刑事の独断で敵のアジトに潜入したり」ではない、官僚機構の中に組み込まれて本庁に頭が上がらない「リアルな」警察の現状を描いたので、この作品もその延長線上といえば延長線上なのかも知れません。(しかし、それにしても「興行離れ」してます。)
出演者の方々も役者のオーラを消し去って、まるでドキュメンタリーフィルムのよう。(「裁判員制度の説明ビデオ」と同列の教材ビデオとしても活用できそうな。)
東京地裁のビルの部屋の窓の外に法務省のレンガの建物が見えたり(CG?)、アークヒルズや第25森ビルを見下ろす泉ガーデンの大手法律事務所と、実際に弁護を引き受けてくれる事務所の対比もあまりにリアル。
被害者の女子高生も駅員も警察も弁護士も検事も裁判官も、それぞれが自分の人生の中でそこそこ真面目にやるべきことをやっているだけなのに、「99.9%の有罪率」の中で刑事事件の被告人が地獄に落ちていくという現実。
見終わった観客の方々も全員、あまりにリアルで不条理な現実に、がっくりとうなだれてトボトボとした足取りでスクリーンを後にして帰っていきました。
デートで見に行っても後の会話も盛り上がらないでしょうし、男性の中には、怖くて満員電車に乗れなくなって生活に影響が出る人もいるのではないかと。
ということで、「最高裁判所裁判官の国民審査の投票をするのと同じくらい、日本国民であれば見るべき」映画だと思いますが、「『選挙に行ったときに、最高裁判所裁判官の国民審査もちゃんとやったほうがいいよ』と言うのと同じくらい人には勧めづらい」映画でもあります。
(ではまた。)

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不二家と内部統制と「クジャク化」する社会

J-SOXと不二家
まずは、J-SOX法のお話。
ご案内のとおり、昨年11月に、「財務報告に係る内部統制の評価及び監査に関する実施基準(公開草案)」が公表されてます。
上記の公開草案の名前にもあるとおり、J-SOX法(金融商品取引法第24条)では、「内部統制」全般ではなく、その中でも、「財務報告に係る」部分だけの評価・監査を義務付けています。
つまり、

内部統制とは、基本的に、業務の有効性及び効率性、財務報告の信頼性、事業活動に関わる法令等の遵守並びに資産の保全の4つの目的が達成されているとの合理的な保証を得るために、業務に組み込まれ、組織内のすべての者によって遂行されるプロセスをいい、(以下略)
(同公開草案「内部統制の定義(目的)」より一部抜粋)

といった内部統制全体の定義のうち、上記下線部だけが対象であり、業務の効率性とかコンプラについては、対象外になってるわけですね。(財界からのプレッシャーもあり。)
不二家が原料や製品の消費期限・賞味期限等を適正に管理するための内部統制を構築し運用する義務があるのは、食品会社として当然中の当然のことでありますが、これは、J-SOX法とはまったく関係ない・・・と言ってしまってよさそうに見えます。
ホントにJ-SOXに関係ないか?
もちろん、財務報告だけが対象といっても、適正な財務報告を作成するためには、ただ入金伝票や出金伝票がちゃんとしてればいいというわけではなくて、それを作成するための経済的実態(原料を仕入れた・出荷した等の事実や、各種見積もりの根拠等)があり、さらにその記録をベースに会計の記録を起票するはずで、こうした記録がいいかげんだと、財務報告の信頼性にも大きな影響が出ます。
また、「平気で法律やルールを破る社風」があったら、当然、会計の記録作成にも信用が置けませんので、「コンプラはJ-SOXの対象外」と言い切っちゃっていいかというと、そうではないかと。
また、消費期限を過ぎた牛乳を使っちゃうということ自体は直接には財務報告に関係なさそうですが、よく考えてみると、今回の事件は今後必ず、すごい額の損失を不二家に与えるわけで、その額が事前に予想されるなら「引当金の見積額に関する内部統制」という形で、結局、J-SOXの範囲内に入ってくる可能性があるんじゃないか、ということも、一瞬頭に浮かびました。
ただ、引当金の計上要件((1)将来の費用または損失、(2)当期以前の事象に起因、(3)発生の可能性が高い、(4)金額を合理的に見積もることができる)のうち、(1)から(2)までは確実に満たしそうですし、(3)もテレビによる不二家のパートさんや従業員の話などによると「いつか何か起きると思っていた」とのことなので満たす可能性も十分にあるんじゃないかという気もしますが、(4)が難しいですね。
ということで、今回のようなコンティンジェンシー的な件が、引当金の計上漏れとか内部統制の不備になるとは思いませんが、経常利益の5%程度のインパクトが予想される件については、要件を満たしている可能性がある場合には、財務報告に直接関係ないようでも、引当金計上の内部統制の不備、に該当するケースもあるかも知れませんね。
(引当金計上の手続きについて報告書の範囲に含めている企業は少なさそうな気もしますので、内部統制報告書やその監査上の不備ということにはなりにくいかも知れません。ややこしいくて恐縮ですが。)
見つけちゃったらジ・エンド
さて、あなたが食品会社の監査役とか内部監査担当だったとして、不二家の件を見て、「うちはどうなんだろう」と調べてみたら、期限切れの原材料を使ったケースが数件発見されてしまったとします。
昨今の情勢を考えると、これはもう公表する以外の選択肢は無いですね。
今、公表したら、「不二家に続いて○○社でも」という報道が行われて、コメンテーターは、「食品会社のモラルはいったいどこへいっちゃったんでしょうねえ」てなコメントを出すに決まっていますし、へたすると本当に会社がつぶれかねない。
・・・ですが、それでも公表しないといけない。
実際、たとえば構造計算書偽造問題で有名になったイーホームズ社は、確か、内部監査部門が偽造を発見し、社長もこれを取り上げて問題にした、と記憶しています。
つまり、内部統制の教科書的には、非常に正直でよい内部統制上の対応をした会社だったんじゃないかと思いますが、結果として会社は確認検査機関としての国の指定を取り消され、会社は(事実上)つぶれちゃった。
会計の内部統制とコンプラの内部統制の違い
財務報告には「重要性の原則」がありますので、利益等の5%程度の誤差は許容されています。
利益を3億円多めに計上している会社があったら「極悪企業」と思う人も多いと思いますが、利益が100億円あるのであれば3%の「誤差」に過ぎませんので、必ずしも「粉飾決算」には該当しません。
また、財務報告は、決算期が終わってから作るわけですし、会計監査人等とのネゴもあります。監査人に会計処理の不適切さを指摘されても、基本的には適正な処理に修正すれば問題ない話。つまり、「やりなおし」がきくのが会計です。
(間違いが多いと、財務報告の内部統制に不備がある、とみなされる可能性はありますが。)
ところが、コンプラの内部統制というのは、こうした許容誤差が極めて小さいですね。
法学では「可罰的違法性」といった理論もあるようですが、会計の重要性の原則ほどは基準が明確じゃないし、その理屈で逃げられる範囲もきわめて限定的な気がします。また、公開企業などでは、法律がどうのというよりも、マスコミやネットも含めた一般からの反応の方が大きいでしょう。
つまり、内部監査等で、期限切れの原材料を使っていた事例が発見された、とか、社内イントラで高校野球の賭けやってたのが発見されました、ということになれば、その原材料の期限オーバーが1日だけであっても、掛け金が一人200円で参加したのが10人であっても、アウトですね。つまり、コンプラ上のミスの場合、一度やっちまったことは、「やっぱり、取り消します」というわけにはいかない。
また、どんな小さな違反でも、「そのくらいいいんじゃないかと思いました」という言い訳が まったく説得力を持たないのが、コンプラの怖さかと思います。
内部統制というのは、前述の草案の目的に「目的が達成されているとの合理的な保証を得るために」と書いてあるとおり、コストパフォーマンスを考えた合理的なものであるべきです。
つまり、単に内部統制をキツくするだけなら、たとえば、全社員1人1人の後ろにマンツーマンで1人づつ内部監査担当者をつけ、営業の席や会議にもすべて同席すれば、かなり不正は行いづらくなります。ただ、そんなことしたら、人件費が2倍になるので、たいていの企業は赤字になっちゃう。そこまでやるのは、もちろん「合理的」ではない。
状況に応じて適切と考えられるコストをかけるのが「合理的」ということなわけです。
ということで内部統制というのは「不正をゼロにするしくみ」ではないので、一定の確率でちょっとしたミスは発生します。
それが、坦々と是正すればいいだけのミスならいいですが、誰でもやってしまう程度のことなのに公表したら会社がつぶれるようなミスの場合は、どないすればよろしいのでしょうか。(今回の不二家の件が、その程度のことかどうかはさておき、一般論として。)
たとえばケーキ10個の材料の期限が1日過ぎていていただけでも、世間がそれを激しく気にするのであれば、バスケット条項(「当該上場会社等の運営、業務又は財産に関する重要な事実であつて投資者の投資判断に著しい影響を及ぼすもの」証券取引法第166条第2項第4号等)に該当するから、当然、適時開示しないといけない話、ということになっちゃいます。
「クジャク化」する社会
渡辺千賀さんのブログで、「不潔道」の考え方が紹介されてますが、
http://www.chikawatanabe.com/blog/2005/09/post_1.html
確かに、日本のように極端に要求水準が高いマーケットを相手にしていると、グローバルな競争力は無くなる気がしますね。
クジャクは、オスの羽がきれいなほど寄生虫などへの耐性が強そうだということでメスに選ばれるので、きれいな羽を持つオス以外が淘汰され、羽がああいった感じに巨大に進化しちゃったそうですが、あの羽は(確かにきれいだけど)、違う環境では役に立たないどころか、デメリットでしかない。
家電とか携帯電話とか、日本独自の(高い)要求水準に適応して、世界で通用しなくなっている産業は、多そうです。
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つまり、バブル発生のメカニズムと同じで、経営者も、従業員も、内部監査担当者も監査役も、投資家も消費者もマスコミも、アホというわけではなく、逆に全員きわめて合理的に行動した結果、社会的な資源配分が大きくゆがむ可能性があるんじゃないかと思いますが・・・・長くなってきたので、続きはまた今度。

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