裸体とディスクロージャー

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昨年見逃していた、放送大学 青山昌文教授による「芸術の理論と歴史(’06)」の第1回の録画を拝見いたしました。

(エラソーな芸術評論家というよりは、「いかにも芸術が好きで好きでたまらない」といった、そのオタク的な語り口も含め、我が家では夫婦して青山教授ファンなのであります。)

青山教授は、ローマのボルゲーゼ美術館で、ティツィアーノの「聖愛と俗愛」

200904161120.jpg

(聖愛と俗愛 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1515年)

の絵の前に立ち、以下のようなことをおっしゃってます。

 

これは、ボルゲーゼ美術館の至宝とも言うべきティツィアーノの「聖愛と俗愛」であります。

えー、ま、普通に考えるとですね、ごく一般に考えますと、着物を着ている方が「神聖なる愛」で、着ていない方が世俗的なといいますか「俗なる愛」と思う方がいらっしゃるかも知れません。

しかしそれは、非ヨーロッパ的な伝統においては確かに、ま、服を着ていない裸の方がそういう「俗なる愛」であって、服を着ている方が「神聖なる愛」というふうに思えるかも知れませんが、

ヨーロッパの古典的伝統においては話はまったく逆でありまして、服を来ていない方が神聖なる愛、天上的なる愛を表しており、服を着ている方が、地上的な世俗的な俗なる愛をあらわしているわけです。

なぜかといいますならば、服を着ていないというのは、裸体というのは覆われていないということでありまして、覆われていないということは真理を表している、本質を表しているということでありまして、その意味において、服を着ていない裸体像の方が世界の本質を表し、世の真理を表しているという、天上的なものを表し、より神に近い存在として、この裸体像が存在しているというのが、ヨーロッパの古典的な文化の伝統なんですね。

そういうことを知らないで見るのと、それを知った上で見るのでは、ヨーロッパの古典的な絵画作品を鑑賞する上に、決定的な差が生じるわけでありまして、この講義においてはですね、ヨーロッパの古典的なものが持っている深い様々な意味合いといったもの、それを知ることによって絵画のより深い本質がもっとよくわかるようになると、そういう様々な知識というものがあるわけでありまして、そういうことをじっくりと講義して芸術鑑賞の理解に役立てるようにしたいと思っております。

 

(うちの奥さん、「どの大学の美術史の授業も、だいたいこの話から始まる。」とエラソーにのたまわっておりましたが。)

 

古代オリンピックが全裸で行われたとか、アダムとイヴがいちじくの葉で隠したとか、カトリックにおける「告解」とか、ヨーロッパには「ハダカ=隠さないこと=本質=善」という数千年にわたる文化が脈々と生き続けている気がします。

 

どうも日本では、「いいことも悪いことも内情を洗いざらい開示する」ということに対しては未だに抵抗感がある人も多いのではないかと思いますが、もし、ディスクロージャーというものが、上述のような「ヨーロッパの文化的伝統」に連なるノリの上に構築されているとすると、すんなり理解できないのもいたしかたない気もしますし、「そういうことを知らないで見るのと、それを知った上で見るのでは、決定的な差が生じる」という気もいたしますね。

以上、木曜日の昼下がりの頭の体操でした。

 

(ではまた。)

 

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裸体とディスクロージャー” への2件のコメント

  1. いや、それが全然そうではなく、いつもの日よりも低いくらいでして。
    タイトルに反応していただいたのは、durianさんだけだったかも。:-)
    (ではでは。)