(女子大生、イタリアまで行っちゃった!)

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昨年フィレンツェに行った時には、人が多くてとても落書きできる雰囲気ではありませんでしたが、そもそも、どうやって落書きしたんでしょうか。
という話はさておき。


こういう、「みんなやってんじゃん」的なことが、一夜にして、「人間のクズ」「犯罪者」扱いされるようになる日本という国においては、「潮目の変化」を見分けないと、非常に怖いですね。
(ノー○○シャブシャブしかり、グレーゾーン金利しかり。)
最近、「個が確立していない社会」で市場経済をやるというのは、結構キツいんじゃないか?という気が、強くしてきています。
市場というのは、「交渉」によって利害を調整するプロセスですが、「個」というものが存在しないと、「言われたら言い返す」ということができない。つまり、「交渉」によってフェアな水準に帰着させるというプロセスがうまく働かない。
「言われた」という事実は科学的に明確に存在するけど、「個」というのは自ら言い返さない限り観測できない。
つまり、他人から「言われた」ということを非常に気にするというのは、ある意味、客観的な事実に基づいた非常に科学的な行動でもあり、人間が取りうる合理的な様態の一つなんでしょうね。「個を持った方がいい」というのは、一つのイデオロギーや宗教であり、「個」があることに比べてないことが絶対的に劣っているとかどうかという問題ではないのではないかと思います。「交渉プロセスを嫌う」人も、例えば、ユーザーニーズをくみ取ってコツコツと努力すればいいモノが作れるような領域には向いていると思います。
また、アメリカのように自己主張しないと生きて行けない社会と、社会との「相対的関係」で自らの位置を決めて行く社会では、社会の様態がかなり異なってくるのは当然。
全情報発信の中に占める実名ブログや署名記事の割合は低下するし、金融検査で無理なことを指摘されても反論しない。「バナナはおやつにはいるのかどうか」を「先生」に決めてもらいたがる。
CMでも、1件クレームが来たら中止される。
(昔の桃井かおりさんの「最近、バカが多くて」とか、最近では、広末涼子さんのCMが「こんなに汗をかいた最後っていつだろう」に差し替えられた件とか。)
下記は、某氏のmixiの日記に載っていた「日本では無理」なメルセデスの「Beauty is nothing without brains」というCM。

(氏は、「このジョークがもし社会問題になるとしたら、何が「問題」なのだろう?」とおっしゃってましたが、「without brains」という表現が「無脳症の人やその家族を傷つけるから」に決まってるじゃないですか。)
「言葉狩り」(内容が本質的に不適切かどうかではなく、字面の形式性で不適切かどうかを決められる)に注意しないといけないのも、日本社会の大きな特徴かと思います。
「内容の本質性」というのは、内容を作った当人が主張しないと客観的には観測し得ない。だから、本人が強く主張しない限り、観測できる形式性でものごとが決まって行くのは当然であります。
株主総会実務でも、なんでちょっと前までは「特殊株主対策」にあれほど神経が注がれたのか?(株主の質問に正面から答えない、社員株主が「議事進行!」と叫ぶ、等)というのが全くよくわからなかったんですが、「個がある社会」に比べて、「言い返せない」からなんだ、と考えるとなんとなく納得。
買収防衛策も、本来は「交渉」で条件を調整するためのプロセスなはずですが、新聞に「保身目的」と書かれてもどの会社も反論しない。
「保身目的」ということは、買収防衛策を入れてる企業の経営者は、エージェントとして最もやってはならない利益相反行為をするようなクズ経営者だと言われてるに等しいですから、「しょーもないこと書いてると、おまえんとこに出してる広告、(略)るぞ、ゴラァ!」ぐらい言ってブチ切れてもいいくらいの話だと思うんですが。みなさん、大人というか上品というかブキミというか。
ここで上手に言い返せないということは、いざ買収というときに、適切なプロセスで調整が行われることが期待できないと考えるのも当然と言えば当然ですね。
また、一方の新聞記者の方々のほうも、事実の積み上げに基づく独自の客観的な分析をするというよりも、なんとなく社内の雰囲気で決まった論旨を、他人の発言などを都合よく引用しているケースも多そうです。
こうした、社会の構成員がそれぞれの相対的な関係だけでふわふわと自分のポジションを決めている社会では、それぞれが「個」の考え方というアンカーに係留されている社会に比べて、一つの意見でドドッと全体の考え方が変わってしまう雪崩的現象が起きやすいはず。
なぜなら、「根源的事実や自分の考えに基づいて絶対的に良いか悪いか」で行動を決定するのではなく、「周囲がみんなやっているかどうか」で自分の行動が決定されることになるから。
というわけで、前のエントリで検討した、日本では「映画を作っただけで犯罪」となる可能性は、やはり極めて高いように思えます。

池田さんのブログで、B-CAS社が決算公告を出していなかったことという朝日新聞の記事を引用して、「このような明白な経済犯罪と斬ってらっしゃる件についての今後も注目されます。
B-CAS社も、「みんなやってねーじゃん」とは言わないんでしょうね。
ただし、(もちろんよい子のみなさんはちゃんと公告していただければと思いますが)、物理的に考えてみると、どどっと潮目が変わって全株式会社がちゃんと公告するようになるとも思えません。
日本の株式会社は約100万社くらいあるようですが、そのほとんどが(日刊新聞だと人目に多く触れるし、電子公告だと「要旨」にできないので)公告掲載先に「官報」を選択しているでしょうから、官報1ページに平均10社分の決算公告が載せられるとして、10万ページ分。
これが平均50日間くらいに分散されるとしても、1日の官報の厚さが2000ページ!(1日電話帳3冊分×50日くらい。)
「どんな官報やねん!」・・・ってことになるので。
(ではまた。)

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(女子大生、イタリアまで行っちゃった!)” への5件のコメント

  1. 磯崎さん、いつもお世話になります。日本のVCについての話は、とても勉強になりました。
    私が「経済犯罪」と書いたのは、公告よりも括弧の中のほうが重要なのですが、今はまだ手の内をあかせないので、そのうちお楽しみにということで・・・

  2. 資本主義という奇蹟

    また磯崎さんからのTBをネタにして恐縮だが、「個が確立していない社会で市場経済をやるというのは、結構キツいんじゃないか?」という問題を、私もいま講義でテー…

  3. どうもです。
    今回いただいたトラックバックもまた、私が今抱えている最大の疑問について頭を整理するのに大変参考になります。
    どうもありがとうございます。
    「手の内」楽しみにしております。:-)
    (ではまた。)

  4. 慣れです…
    日本人の適応能力は高いのに、家に引き篭らせるような教育が戦後行われているから、現状になっているだけです。特に勉強だけしかしないでいいという環境が一番悪いのです。
    例えば公教育で、英語を学習するのに、なぜ日本人がするのですか? これでは、英語の習得だけでなく、英語圏の人たちの感じ方や考え方に適応できるわけがないではありませんか?
    なぜ、お金の計算と簿記を早いうちに学習させないのですか? 算盤塾がほとんどなくなりましたね。あれは、計算力を養うのではなく、商売の基礎を学ぶためです。現代ならば、表計算をパソコンで早いうちに教えた方がいいです。
    などなど、まずは、慣れ親しむことが学習になるのに、くだらない低俗なことばかりが広まるのは、勉強する暇を与えているからです。暇ほど苦痛はないから、間違ったことで時間を埋める適応学習が進むことになります。特に、パソコンやネットは、使用目的が曖昧なら、ただの妄想の道具にしかなりません。(身近に師がみつからないから、ネットで探すというなら、若い人たちはもっと必死に探さなければ…)(暇つぶしにつきあっている大人がいるなら、こちらも有害です。)